国史画帖『大和桜』㊲ 新田義貞 燈明寺畷にて戦死す・・
南朝の大忠臣新田義貞は、後醍醐天皇の勅を戴き、その子義顕(よしあき)をして皇太子恒良親王、尊良親王を奉じて越前金ケ崎城に立て篭もり義兵を挙げたが、運拙く城は陥落し尊良親王は義顕と共にご自害遊ばされ、皇太子は捕えられ京都に於いて足利尊氏により遂に毒殺され給うた。
杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)にあって義兵を集めていた義貞は、この凶報を伝え聞き義憤に燃え、一死を以って君恩に報わんと杣山にて敵と戦いしが、衆寡敵せず遂に藤島に走り、ここに於いて賊を滅ぼさんとしたが敵の勢い侮り難く、義貞は自ら五十騎を率い、賊軍の本拠を突き崩すべく燈明寺畷(福井市新田塚町)に差しかかった。
この時、三百余の賊兵は弓を携えて腰を没する深田に入り、地の利を占め矢を雨霰の如く乱射する。
これがため義貞方は五十騎忽ち死傷し、愛馬も身に五筋の矢を受けどっと倒れ、義貞が起き上がろうとした途端、敵の矢が額に当たり、急所の痛手に目暗み、最早これまでと自ら我が首を刎ね、深田の中に埋めその上に横たわり、三十八歳を一期とし武人らしき潔い戦死を遂げた。
かくて義貞、義顕父子を始め、一族何れも君国に身命を捧げたのである。
愛馬も身に五筋の矢を受けどっと倒れ、義貞が起き上がろうとした途端、敵の矢が眉間に当たり・・・
二の城戸の土塁と堀、背後が杣山(そまやま) 史跡 杣山城址
史跡 燈明寺畷 新田義貞 戦没伝説地
祠の中の石碑「暦応元年(1338)閏七月二日 新田義貞 戦死此所」