泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年01月

国史画帖『大和桜』㊲ 新田義貞 燈明寺畷にて戦死す・・

南朝の大忠臣新田義貞は、後醍醐天皇の勅を戴き、その子義顕(よしあき)をして皇太子恒良親王、尊良親王を奉じて越前金ケ崎城に立て篭もり義兵を挙げたが、運拙く城は陥落し尊良親王は義顕と共にご自害遊ばされ、皇太子は捕えられ京都に於いて足利尊氏により遂に毒殺され給うた。
 
杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)にあって義兵を集めていた義貞は、この凶報を伝え聞き義憤に燃え、一死を以って君恩に報わんと杣山にて敵と戦いしが、衆寡敵せず遂に藤島に走り、ここに於いて賊を滅ぼさんとしたが敵の勢い侮り難く、義貞は自ら五十騎を率い、賊軍の本拠を突き崩すべく燈明寺畷(福井市新田塚町)に差しかかった。
この時、三百余の賊兵は弓を携えて腰を没する深田に入り、地の利を占め矢を雨霰の如く乱射する。
 
これがため義貞方は五十騎忽ち死傷し、愛馬も身に五筋の矢を受けどっと倒れ、義貞が起き上がろうとした途端、敵の矢が額に当たり、急所の痛手に目暗み、最早これまでと自ら我が首を刎ね、深田の中に埋めその上に横たわり、三十八歳を一期とし武人らしき潔い戦死を遂げた。
 
かくて義貞、義顕父子を始め、一族何れも君国に身命を捧げたのである。
 

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愛馬も身に五筋の矢を受けどっと倒れ、義貞が起き上がろうとした途端、敵の矢が眉間に当たり・・・


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二の城戸の土塁と堀、背後が杣山(そまやま)      史跡 杣山城址


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 史跡 燈明寺畷 新田義貞 戦没伝説地

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祠の中の石碑「暦応元年(1338)閏七月二日 新田義貞 戦死此所」



国史画帖『大和桜』㊱ 四条畷の花と散る 小楠公・・

足利尊氏は味方の敗北を聞き、楠木正行(くすのきまさつら)の軍勢侮りがたきを察し、高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)に六万の兵を授け吉野へ向かわしめた。
 
正行は賊の大軍押し寄せると聞き、いよいよ最後の決戦を成すべく覚悟を定め、今生のお暇乞いにと後村上天皇に拝謁(はいえつ)を願えば、天皇は御簾を高く巻き上げさせられて「たとえ戦いに利あらずとも、生きて帰れよ」との御錠に、正行は感涙に咽び御答弁も出来ず、これが最後の参内と思い定めて退出し、更に一族郎党を引き連れて後醍醐天皇の御陵にお暇乞いを告げ、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に百四十三人の姓名と『帰らじとかねて思えば梓弓(あずさゆみ)、なき数にいる名をぞ留むる』と書き記し、討死を覚悟して出陣した。
 
正行は三千余人を率いて四条畷に進み師直の本陣に迫り,高師直なりと呼ばわる敵将を討ち取ったが、師直の身代わり山上六郎左衛門と判り首を地に投げつけ、雲霞の如き敵陣に斬り込みしも味方は殆ど討死し、身に数か所の矢傷を受け最早これまでと、弟正時と共に刺し違えて自刃し、正行に従って最期まで戦った一族郎党の三十余人も、共に腹をかき切って悲壮な最期を遂げた。
 
時は正平三年(1348)正月五日、正行僅か二十三歳であったが、忠君愛国の精神は千載に朽ちざる精華である。

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    楠木正行(まさつら)、四条畷に於ける奮戦の図

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        四条畷の戦い    歌川國芳 画

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     四条畷、小楠公墓所の正面。墓所は大阪府の史跡に指定


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二本の楠木の合体木。楠木正行が戦死した場所に建てられていた石碑の両脇に植えた楠が、大木になり石碑を包み込んでしまった。

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             小楠公墓地

この墓地は、南北朝の南朝忠臣楠正成の長子正行公が足利尊氏の武将高師直(こうのもろなお)の大軍と戦い敗れて戦死して葬られた地で、府の史跡に指定されています。
 楠木正行の死後、小石碑が建てられていたのですが、その後に石碑の両側に2本の楠木が植えられ、年月が過ぎ2本のクスノキは1本に合し、その石碑は木の中に入り込んでしまったとのこと。
 明治234月には墓所前の道を山手にまっすぐに行った飯盛山の山麓に正行を主祭神とする四條畷神社が創建されています。楠木正行といえば南朝の忠臣・楠木正成(まさしげ)の嫡子で、正成を大楠公と称するのに対して正行は小楠公と呼ばれています。ちなみに正成は神戸市の湊川神社に祀られています。また京都・嵯峨の宝筐院には楠木正行の首塚と伝わる石塔があります。

国史画帖『大和桜』㉟ 楠公父子 桜井駅の決別・・

孤軍を以って、よく足利尊氏の大軍を悩ませたる大忠臣楠木正成の献策は、柔弱なる長袖連中の為、遂に妨げられ、尊氏を兵庫の浜に迎え討てとの詔を奉じ、不利な一戦を交えねばならなくなった。
 

既に、覚悟を定めていた正成は、河内より我が子正行(まさつら)を桜井の駅(大阪府島本町桜井)に呼び寄せ・・・


「今度の合戦こそ天下安危の別れ目なれば、生きて汝の顔を見るのもこれ限りぞ、我討ち死にせば、必ず足利の世に成らむ。 呉々も身命を惜しみて忠義の心を失うべからず、一族郎党一人でも生き残らば飽くまで朝敵を攻め滅ぼせよ、事成らざれば潔く身命を大君に捧げ奉れ、これ汝が第一の孝行ぞ、返す返すも父の今申したことを忘れまいぞ」・・・


と申し、形見として菊水の短刀一口を渡したときに、正行十一歳であっが、父に従って軍に加わり、共に討ち死にせんことを願ったが許されず、後ろ髪引かれる心地して故郷河内に帰ったのである。

 
この父にしてこの子有り、正成は神戸湊川で討死し、正行は父に代わり勤王の師を起こし忠誠を尽くしたが時に利あらず、遂に父の後を追って護国の鬼と化した。
 
爾来六百年、楠公父子の忠誠は我が日本精神の亀鑑である。

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      桜井駅の農家に於いて、楠公父子決別の図

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            楠公父子決別の図

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           楠公摂州湊川発向之図

 楠公の歌~櫻井の訣別~


楠公の歌 (青葉茂れる桜井の・・)
落合直文 作詞  奥山朝恭 作曲  文部省唱歌(明治36年)
(昭和25年頃まで、小学3~4年生時に歌われていた)

-桜井の訣別-
1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か
 
2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
  汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ
 
3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに  御供(おんとも)仕えん死出の旅
 
4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(まま)ならん
  早く生い立ち大君(おおきみ)に  仕えまつれよ国の為
 
5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん
 
6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
  誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を

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