泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年12月

国史画帖『大和桜』㉞ 国乱れて忠臣 楠木正成現わる・・

北条氏一門の専横と悪政の為天下乱れ、人心ようやく鎌倉幕府から離れんとしたので、後醍醐天皇は、政権を朝廷に挽回するはこの時なりと、諸国の忠臣に討幕の御沙汰を下し給うた。

これを知った執権北条高時は大いに驚き、大軍を京都に送ったので、元弘元年1331天皇は難を避けて笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町)に行幸遊ばされ天嶮の城砦に御立て籠もられた。
即ち笠置山御遷幸である。
 
この時、畏くも天皇の御夢枕に現れ神示によって召し出されたのが河内国金剛山麓に在った楠木正成である。

正成は御旨をつつしみ、急遽行在所に馳せ参じ有り難き聖旨を賜った。
この時正成は「賊軍如何に強くとも、謀(はかりごと)を以ってせば、差のみ難事には候はず、万一我が軍勢敗れることあるも、正成唯一人残れりと聞きし召されば、聖慮を悩まし給うまじ」と言上すれば、帝は深くその忠節を嘉(よみ)し給う。
 
ここに於いて、一死を以って君国に報せんと神明に誓い、正成直ちに帰国し赤坂に城を築き、天皇を迎え奉らんと計ったが、時至らずして笠置山は賊徒のために陥落してしまった。

大忠臣楠木正成の活躍はこれから幕が切って落とされるのである。

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      楠木正成、鳳輦(ほうれん)を迎えるの図

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             楠木正成

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             皇居前の 楠木正成公銅像


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国史画帖『大和桜』㉝ 金作の太刀を龍神に捧ぐる 新田義貞・・

新田義貞が義兵を起こして笠懸野(群馬県桐生市付近、渡良瀬(わたらせ)川の旧流路がつくった大間々(おおまま)扇状地の古称)に向かった時は、一族郎党僅かに百五十騎であったが、忽(たちまち)にして甲斐、信濃、越後をはじめ上野、下野、上総、常陸、武蔵の諸兵馳せ参じて、その兵二十余万となった。

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 北条高時驚いて義貞を討たしめたが、義貞は却って高時の大軍を破り、大勝利を聞き、来たり従う軍勢は実に五十余万と称するに至った。
 
 義貞、兵を三方に分かちて鎌倉に攻め進んだ。
 時に元弘三年1333五月下旬、夜半を利用して自ら二万余騎を率いて極楽寺(鎌倉市)に到り、敵陣を見るに山地嶮にして、南は稲村ケ崎の隘路に逆茂木を張り、海には舟帥を浮かべて備えすこぶる厳を極めていた。
 
 義貞、馬を下り兜を脱ぎ海に向かい、義貞のこの度の義兵を聞きし給いて潮の引くようにと、龍神に祈願を込め「金作り(金装)の太刀」を海中に投じたところ、忽ち海水干潮して稲村ケ崎(鎌倉市)付近二十余丁は砂浜となり、兵船は引き行く潮に誘われて遥か沖に流された。
 
 そこで義貞、軍をさしまねき、一挙進撃して鎌倉を陥れたのである。
 ここに於いて鎌倉幕府は遂に滅ぼされた。


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  新田義貞、龍神に祈願を込め「金作り(金装)の太刀」を海中に投じた

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         龍神に祈願を込める新田義貞

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           稲村ヶ崎(鎌倉市)

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           稲村ヶ崎 突端部

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       稲村ヶ崎石碑.新田義貞徒渉伝説の石碑
今を遡る五百八十四年の昔、元弘三年(1333)五月二十一日、新田義貞この岬を廻りて鎌倉に潜入せんとし、金装の刀を海に投じて、潮を退かせんことを海神に祷れりと言うはこの処なり。
 大正元年三月建之           鎌倉町青年会



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