泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年08月

国史画帖『大和桜』⑲ 孝子重盛、父清盛の不忠を諫める・・

平家一門の専横が、日に月に募りゆくを憂いた藤原成親らは、治承元年(1177)愈々党を結んで平氏殲滅の計画を立てるに至ったが、事前に発覚して成親等は捕えられた。
 
清盛の思えらく、今度の事件の源泉はむしろ「後白河法皇の聖慮に基づくものとなし、畏くも法皇を幽閉し奉らん」と、密かに一族郎党を平家の一大事と偽り己の邸に集めた。
清盛の長男重盛は平服のまま遅れて参集したので、その弟宗盛「何故お家の一大事に甲冑を召されざるや」と詰問したが、重盛は却って他の者の武装せるを甚だ訝しいことであると言って戒め、進んで父清盛の前ににじり寄った。
さすが非道の清盛も、この凛然として犯すべからざる重盛の態度と清節とに気おくれを感じ、自ら法衣を以って鎧を覆い隠しながら重盛を迎えた。
 
重盛は、この場の甚だ不穏当なるを説き、所謂忠孝両道を全うせん為、先ず重盛の首を刎ね給えと声涙をもって父を諌めた。
茲に於いて、臣としてあるまじき大逆を敢えてせんとした清盛は、今一歩のところで危うく思い止まり、天晴な重盛の忠孝両道は後世まで賞賛せられている。


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       長男平重盛は父清盛の不忠を諫めた・・

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                         甲冑の上に法衣を着ていた平 清盛

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国史画帖『大和桜』⑱ 源 義平、平 重盛、待賢門の奮戦・・

平重盛は「年号は平治1159-60なり、都は平安、我等は平氏なり、敵を平げるに何の疑いあるべきぞ」と平安城を守る藤原信源義朝を攻めるべく、待賢門(御所東門)に自ら五百騎を率い攻め寄せ、大音響に「この門の大将、信頼卿と見るは僻目(ひがめ=偏見)か、かく申すは桓武天皇の苗裔、太宰大弐清盛が嫡子左衛門佑重盛(さえもんすけしげもり)、生年二十三」と名乗りをかければ、信頼恐れて退く。

義朝これを見て「悪源太はおらぬか、信頼の大臆病者は攻め立てられしぞ、あれ追い出せ」との声に応じ「かしこまりました」と駒に一鞭当て駆け出でて大音響にて「この手の大将は唯人ぞ名乗り給え、我こそは清和天皇の後胤、左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が嫡子、鎌倉悪源太義平(あくげんたよしひら)十九歳、いざ見参」と群がる敵の真ん中に躍り込み、続く十六騎共に、馬の蹄に蹴散らし斬り倒し、その勢い鬼神の如く、たちまち五百騎を追いまくり・・・

重盛新手を率いて、またも攻め来るを義平は弓を小脇にかい挟み「出でや組まん」と、互いに左近の桜、右近の橘の周囲を、追いつ追われつ、げに天晴の戦いであった。


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     小松内大臣重盛、悪源太義平・・紫宸殿の戦図

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      小松内大臣重盛、悪源太義平・・紫宸殿の戦

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           藤原信頼 (ドラマより)
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            京都御所・大内裏


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【天津】爆発前空撮と爆発後空撮、その凄惨さ・・

 中国天津に於ける8月12日深夜の大爆発は、何がどの様な状況で爆発したのか? 爆発が強烈過ぎて想像することさえ出来ません。
 恐らく中国政府は、何がどのようにしてこんな大爆発に至ったのか解明の後でも、発表するような事には至らないでしょう。

 爆心地周辺の、ほぼ同一場所、同一角度での空撮です。

 地上に化学物質の保管設備はないが、すべて地下に保管収納されていたのだろうか?・・・想像では全く解し得ない謎だからです!


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      【爆発後】中央部、黒いホールが爆心部分


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  天津【爆発前】中央【黄色ピン止め】部が爆心付近となる・・
   コンテナや高層住宅は、影として映っているので高さの目安になる。

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       天津【爆発前最新映像】 爆心地付近

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       天津【爆発前最新映像】 爆心地付近


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爆心部分(醤油色の透明な水で満たされている・深さ50mか?)     (染み出した地下水だろう)

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 爆心部分(瓦礫が5階建てビルより高く積み上がっている)

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     5階建て事務所の向こうに爆心地の池が・・・

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      爆心地の事務所・・・中聯物流有限公司

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           爆心地付近の事務所

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         爆心地付近 紫色の煙も・・・

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          爆心部分

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          爆心部分

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爆心部分 2週間後、8月26日には、池は黄色に変色していた・・

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            犠牲者の収容

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            取り敢えず犠牲者の収容

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           千切れて吹っ飛んだ片足・・

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         応急処置を受けた血まみれの作業員・・・

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       下半身が燃えたまま動かない、介助車の老人・・

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           いたる所に黒焦げの遺体が・・・

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           ここにも作業員の遺体が…

天津爆発動画(8月12日深夜)爆発と4秒後の衝撃波・・・




遭難者の惨憺たる姿(合掌・・・)↓


周辺被害状況・・・↓






天津大爆発・・被害状況の網羅(合掌)http://www.molihua.org/2015/08/58.html


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        瞬間的に溶解したアルミホイール

  爆風を受けたマンションは更に凄惨・・・↓
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  右奥の噴煙部分が爆心地↑・・マンション裏側被害がコレ・・
  住人は窓ガラス、サッシごと吹き飛ばされたとみてよいです。
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     高層住宅住人が吹き飛ばされた状況・・合掌・・

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    爆風を受けたマンションは更に凄惨

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    天津港付近で魚類の大量死が発生した。 8月21日
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天津爆発の黒幕? 習主席が江沢民を軟禁か・・・http://www.epochtimes.jp/2015/08/24376.html

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        2015.8.22  江沢民 身柄拘束?
   (但し9月3日の「戦勝記念パレード」には壇上に列席していた)

「天津大爆発」は習近平総書記暗殺のための爆発だった・・http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33684569.html


↓ 動画 https://www.youtube.com/watch?v=uFxwvg_2P50

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国史画帖『大和桜』⑰ 頼朝の猜忌心・・遂に義経の館を襲う・・

源頼朝が鎌倉に居ながら平家を滅ぼしたのは、主に弟義経の功であった。
然るに頼朝は義経の智謀を妬み、次第に危険視するに至った。
義経は兄に相談せず平時忠(たいらのときただ)の娘を妻とし、また頼朝の手を経ず内奏して官職に就いたことなどから憎まれる様になった。
その上、梶原景時が義経との逆櫓の争い以後、何かと頼朝に讒訴(ざんそ)したので義経を憎む心が一層激しくなった。
そこで義経は兄に二心なき事を陳謝すべく鎌倉に下ったが、鎌倉へ入ることさえ許されず、やむなく京都に帰った。
 
これより頼朝は一層憎み、遂に土佐坊昌俊に義経を殺すように命じ、京都に向かわしめた。
義経はそれと察し、昌俊を呼び詮議すると『私は京、奈良の寺々を参詣する考えで来た』との答え、義経は昌俊に向かい『拷問にかけ白状させるべきだが、兄の家来ならば特に見逃して遣わすが、この義経を殺す考えならばいつでも来たれ』と云って帰した。


 文治元年(1141)九月十七日、義経の慧眼通り、その夜昌俊は兵を率いて義経の室町、堀川館を襲った。

この時家来は僅か7人と静御前とであったが、軍馬の音に『昌俊よくも来たな』と云いながら、義経甲冑に身を固め、敵を散々破り、昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが、義経の郎党に捕えられ同月二十六日に六条河原で梟首(きょうしゅ=さらし首)された。


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軍馬の音に「昌俊よくも来たな」と云いながら、義経は甲冑に身を固め・・
         (京都六室町、堀川館)

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  「文治元年九月十七日六條堀川夜討之圖」 一寿斎芳員

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      土佐坊昌俊・堀川御所の義経を夜襲の図

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 室町から江戸時代までの京都六条河原、奥の橋は松原橋、遠景は比叡山




国史画帖『大和桜』・⑯ 壇ノ浦合戦 義経の八艘飛び・・

屋島の戦いに敗れた平家は、幼帝安徳天皇を奉じて西を指して逃れたが、豊後(大分)には源氏の将範頼が控えているので、九州に上陸することが出来ず、残船500艘の舟師を以って不安な海上の生活を続けていた。

時に寿永4年1185324日、義経は兵船700余艘を率いて壇ノ浦に平家の兵船を攻め立てたので、遂に平家方の大敗戦となり、清盛の妻、二位の尼は御年僅かに八歳におわせし安徳天皇を抱き参らせ『父帝のおわします方へ、御供仕つらん』と申し上げ、海中に身を沈めたことは誠に畏れ多き極みであった。
 
この戦いに平家の勇将能登守教経(のとのかみのりつね)は今生の土産に義経を討ち取って死なんと、義経の舟に近寄り名乗りを上げて詰め寄った。

義経は組み付かれては叶わぬと思い、身を躍らせて次々と兵船に飛び移り、その身軽さに流石の教経もかなわず、身に数か所の矢傷を受け、最早これまでと前より組み付く敵を海中に投げ込み、後ろより組み付く敵もろ共に海中に身を投じた。
後世義経の八艘飛びとは、この飛鳥の如き早業を指して云う。

かくして平家は、清盛が太政大臣となって十数年、源頼朝が旗揚げしてしてより僅か6年目にして「驕る平家は久しからず」と云う諺通り滅ぼされたのは、宜(むべ)なる哉である。

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         壇ノ浦合戦 義経の八艘飛び

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    能登守 平 教経↑  壇ノ浦合戦 義経の八艘飛び

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 神璽と宝剣を身につけて、壇ノ浦に入水する二位尼・平時子と安徳天皇。
平清盛の妻二位尼は、三種の神器ともども平清盛の娘、徳子が生んだ幼帝安徳天皇を抱き、壇ノ浦の海に入水します。


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国史画帖『大和桜』・・義経梶原の「逆櫓」の激論・・

兄頼朝の挙兵に馳せ参じた源義経は、梶原景時、伊勢義盛、那須与一、佐藤継信等の猛将を率いて、平家討伐の総大将として、向かうところ敵なしが如く旭日昇天の勢いをもって、遂にその目的を完成したが、寿永411852月、摂津より海路阿波に渡って平家と決戦を交えんとして水師を準備した時、源氏としてはこれまで舟にも海戦にも経験の乏しい者が多かったので、海上に戦を求めることを危険なりと主張する者があった。
 
この時、梶原景時は所謂「逆櫓(さかろ)の法」と云って、兵船の舳先にも櫓を付けて、退く際には速やかにこの逆櫓を思うままに利用して、舟を運用する議を献策したのである。
すると義経は『戦いに退くことは禁物である、従って逆櫓は無用の長物である』と云って頑固にこれを退けた。

梶原は立腹して『進むときに進み、退くべき時に退き、身を全うして敵を滅ぼす事こそ真の名将で、進むを知っても退くを知らぬは猪武者である』と罵倒すれば、義経『猪武者とは何事ぞ、吾は唯進んで敵を倒すの愉快を知るのみ、梶原が若し軍の大将に成ったら付けたら良い、吾が船に逆櫓は汚らわしい』と憤り、梶原も負けず応酬し我が主人は頼朝公唯一人なりとこれ又一歩も譲らず、義経は今や此れまでと太刀の柄に手をかけ、烈火の如く憤って梶原目がけてにじり寄る、あわや両々相討ちの大事に至らんとしたが、部下の者が必死となって漸くなだめて激論は鎮まった。
 
然し海戦に不慣れの義経の軍勢が、屋島、壇ノ浦の両戦に大勝を博して平家を殲滅することが出来たのは、全く義経の豪勇英断あり、梶原の智略賢謀と部下に多くの忠臣勇将があったからである。

(この時以降、梶原景時から源頼朝に何かと讒訴したので、頼朝の義経に対する猜疑心は募ってゆく)

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       源義経と梶原景時の「逆櫓」の激論の図

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        源義経と梶原景時の「逆櫓」の激論

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         義経、讃州八島(屋島)の名誉

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           源平八嶋大合戦之図

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           源平八嶋(屋島)の戦い



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