泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年01月


 ● 排水路の不備が災害を拡大した・・広島市安佐南の水害 

 昨年(2014820日、広島市安佐南区の豪雨による鉄砲水で、全半壊155戸、死者74名の大水害が発生しましたが、その状況は土石流による岩石、流木、土石流等による惨憺たる被害となりました。

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          8月20日03時25分頃の降雨データ

 被害状況をニュース画面で見るにつけ「放水路はどの程度の土砂・流木で目詰まりしてしまったのか?」と注視して見たが、流木と土石の中で画面では判別できない。

  ・ 放水路は一体、何処にどれ程のものがあったのか? 
・ 放水路は土石で埋まってしまったのか? 
 ・ 放水路は倒壊家屋で埋まったのか? 

土石、流木が混在して水路の場所もその規模も、ニュース画面から想定することすら出来ませんでした。
 
ところが3ケ月後、土砂や残骸整理も進行して1121日の読売新聞に、ほぼ整地された八木地区の次の写真が掲載されました。
この写真には八木地区の無いに等しい「放水路」「侵入道路」が明確に写っております。
それは「針金のように湾曲した、細い細い排水路」でした。

 いや、放水路と言うより「幅1mの排水溝」、ごまかしの放水路でした・・・それは当初から放水路の整備不良だったのは、歴然とした事実だったと確証された写真でした。

  広島市関係者にとっては「気にはなっていたが、起きるべくして起きた事故」とはっきり言える事実です。

  先ずはその写真を見てみましょう。

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(2014年11月21日読売新聞)広島土砂災害から3ケ月(安佐南区八木)
            後片付け、ほぼ完了・・だが

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      広島市安佐南区八木の無計画放水路位置とその規模

● 水路を水色で明示して見易くしてみましたら・・・
・  放水路の幅は1m強と判断されます。 排水溝の部類ですね。
・  この程度の排水設備しか準備されていなかったのです。
・  これでは一寸した夕立ちだけで、排水溝は溢れていたことでしょう。
・  ましてや、集中豪雨の場合、この排水溝で処理不能だとは素人判断でも歴然です。

 この程度の排水溝で雨水対策とは、広島市は笑われて当然でしょう。


【問題点】

   宅地開発優先により、排水路は限界にまで圧縮された傾向がある。
   広島市土木局の指導のないまま放置し、宅地業者主導で住宅開発された気配がある。
   広島市は、これほどの山容と谷沢であれば、少なくとも道路と同様に川幅5m直線的な放水路が必要だと、開発時に準備させるべきだ・・と判断するのが常識のはずなのです。
(「神戸市なども、山麓周辺にかけて住宅開発がなされ注意が喚起される」等と、この時報道がなされていたが、神戸は沢や谷間ごとに幅5m以上の排水路や河川はほぼ完備されているし、市政の当然のことだ)
   幅1m強の排水溝では、台風接近時や雨脚の強い夕立ちなどが有った場合、排水溝で処理しきれない水が常時溢れていた筈だと、素人にも想像できます。それらを見た住民等から広島市へ「河川改修の声」が出ていたと思われますが如何だったのでしょうか?
   恐らく、遅かれ早かれ平地まで川幅5mの排水路を設置しなければ、沢の出水を処理しきれない事に成るでしょうが、無かったところに造るのですから、移転立退き問題は必ず発生することでしょう。(都市計画、河川改修の見直しをしないと、この様な災害の再発は、先ず必至であることは明確です。)
● 広島市はこの地域の各々の谷沢に「砂防ダム」を数年かけて設置する予定としていますが、「砂防ダム」の役目は「土砂の流失防止」のみで、1~2年でダムの土砂満杯は必至!
 豪雨の排水処理には、ダムは全く役に立たず「排水用河川」の必要に追い込まれるのは、灯を見るより明らかですね。

 広島市は、もっともっと知恵を絞り出せよ!


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     広島市八木の災害前と災害後
 ↑ 災害前でも、排水路(河川)らしきものが確認できない。

県営住宅は「危険個所」を避けて建設されている。
(県住宅公社は、鉄砲水のリスクを把握していたと見えますね)
(把握していて、公表や広島市に注意喚起しないのは、公的機関としてどうかしていると思います)

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    県営住宅下の放水溝・・・幅1mの側溝ですね(手前は暗渠)

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    これだけの山容ですから、沢ごとに放水路は必要でしょう

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   これだけの山容ですから、沢ごとに放水路は必要でしょう

 ・  放水路らしきものがなく雑然と家屋が建っている。
      宅地開発時に、放水路設置の義務付けが無かったのか?
   宅地の購入者も、沢の規模と放水路の不備に早く気付くべきでした。
・ 
  今後、放水路を整備するため、立退きが必要ですね。



  ↓ 神戸・六甲山に新設された透過式砂防ダム。
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岩石や流木を止め、それを取り除いて次の被災に備える砂防ダム(神戸市)
  (広島市安佐南地区の、今後の砂防ダムにも参考になるでしょう)

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岩石や流木を止め、それを取り除いて次の被災に備える砂防ダム(神戸市)


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保存保存保存保存保存保存

●26・満州の名刹と風光・・満州霊廟建設記念・・絵葉書・・

満州事変により満州全土を制圧した日本帝国陸軍(関東軍)は、1932年(昭和7年)3月に清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を担ぎ「満州帝国」を建国した。

その翌年、1933年に発起人・西岡大元氏によって満州霊廟建設が提起され、日本軍部及び満州国政府の協力のもと、奉天市(瀋陽)皇姑区岐山中路11号に於いて着工され、1938年(昭和13年)竣工したものです。

絵葉書の販売による、国内での協賛金を集めたものでしょう。

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満州霊廟・・ 『執政府内廷局 為』(霊廟建設用地発給承諾書?)
        西岡大元上人に対して発行された内容と成っている。
・       大同2年11月17日(大同は満州建国時年号)は1933年


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                                                                 [チチハル]
                               |
[承徳]--[錦州]--[奉天(瀋陽)]--[新京(長春)]---[哈爾濱]--[佳木斯]
                   [遼陽]--[鉄嶺]                 |
             [山海関]    [鞍山]--[撫順]-------------[吉林]------------[牡丹江]
                       |
                 [金州]   [安東(丹東)]

              [旅順]-[大連]

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   満州霊廟建設記念 第壱集 (満州霊廟奉賛会発行)  包装紙
 
 【 満州霊廟奉賛会 】
名誉会長 前国務総理大臣   鄭孝将(鄭孝胥・ていこうしょ)
会長 国務総理大臣      張景恵
副会長 陸軍中将       楠山又助
理事長 日本駐在大使     謝介石
理事 陸軍中将       小磯国昭
理事 海軍中将        小林省三郎
常任理事 建立発起人     西岡大元
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国務総理大臣 張景恵  前国務総理大臣 鄭孝将       陸軍中将 楠山又助       


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日本駐在大使  謝介石   陸軍中将 小磯国昭    建立発起人 西岡大元

若し満州方面で戦病死、或いは殉難せられました御縁故の方が御座いましたら、御手数ながら左記へご法名又は俗名、死亡年月日、年齢等適当に御記入下さいませ。
霊廟で朝夕ご供養させて戴きます。
 
大阪市天王寺区勝山通り2丁目38番地  満州霊廟絵葉書頒布会
大阪市天王寺区東平野町3丁目34番地  満州霊廟 総務部


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満州霊廟・・     日光殿」及び日本僧堂の一部

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満州霊廟・・ 東大門より工事場を望む(上記日光殿」の後ろ側と思える)

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    現在は・・遼寧省公安庁老幹部活動中心(センター)らしい
・         上記「日光殿」と棟瓦を含めて同じ建造物です・・

【参照】加藤正宏の瀋陽史跡探訪(皇姑区岐山中路11号の『満州霊廟』)

http://www.geocities.jp/mmkato75/reibyouya.html

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満州霊廟・・      東大門より工事場を望む

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満州霊廟・・  西北方土木工事場より日光殿日本僧堂を望む

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満州霊廟・・      日本僧堂用 満州瓦製作所にて・・

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満州霊廟・・      日本僧堂用 琉璃瓦製作所にて・・

卍 修行尼、浄蓮師より「満州霊廟」及び「西岡大元上人」について、下記教えを乞うことが出来ました。              浄蓮師のブログ→http://blogs.yahoo.co.jp/mphfp651/39649638.html 

「近代日蓮宗年表」(日蓮宗宗務院発行)「満州霊廟」の記載
昭和9年9月9日 ・・満洲霊廟地鎮式を修す。
昭和13年12月25日 ・・開教師西岡大元 日満殉国霊追悼のため奉天に日光寺を建立す。

「新編日蓮宗年表」影山尭雄他編 日蓮宗宗務院・日蓮宗新聞社発行
昭和13年10月24日・・ 身延山は奉天の満洲霊廟(日満蒙三国英霊合祀所)日光殿日本僧堂の本尊として身延釈迦堂安置の釈尊像と七面山の鏡を奉じて法要を営み、これを満州に送る。
昭和13年12月25日・・ 奉天の西岡大元は、満洲霊廟と日本僧堂との落成式を挙ぐ。
唱題修行

私どもの唱題修行の信行会の会名は「地涌題目奉唱道場」、略して「涌唱会」と言います。
目的は宗綱に記されている通り、釈尊の御教えに従い、本化上行日蓮大菩薩の御心に沿うお題目をお唱えすることです。
大聖人の御遺文に「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか・・・云々」とあります。
その地涌の菩薩の流類として、大聖人同意のお題目に一歩でも近づく為に唱題修行を致し、心を磨くことです。

会祖は西岡 大元上人「覺證院日龍聖人」と申します。宗門に残る記録として平成元年の「新編日蓮宗年表」に

一、昭和十三年十月二十四日身延山は奉天の満州霊廟(日、満、蒙三国殉国英霊合祀所)の日光殿、日本僧堂の本尊として身延釈迦堂安置の釈尊像と七面山の御鏡を奉じて法要を営み、ついでこれを満州に送る。

二、昭和十三年十二月二十五日、西岡 大元は満州霊廟の日光殿と日本僧堂の落成式を挙ぐ。 と掲載されています。

また、昭和三十一年の「妙法誌」によれば、
当時、大元上人は愛国の志士であり、少年時代は軍人を志して幼年学校に行き、士官となられました。
「満、蒙独立運動」に参加され、在郷軍人の育成に努められました。
ある日、自然に腹の底から涌き上がってくるものがありました。
やがてそれは「ナーナー」と口をついで言いだし、一日中「ナーナー」と言い続けました。
翌日、「ムームー」と言い出して、抑えようとしても抑えられず言い出してしまうのです。
やがて、一週間が過ぎると、一音の「南無妙法蓮華経」を唱え出されたのです。

その頃は信仰に入っていなかった上人は、何のことか解らず、不思議に思って日蓮宗の門を叩き、仏道に入って修行を志されたのです。
と書かれています。

上人は潮師法縁の瑞輪寺に於いて得度なされました。
時に、私の師である渡辺練定上人の弟弟子となったのです。

満州事変当時、上人は宣撫工作をなされており、先ほどの宗門誌に掲載された霊廟で、満蒙人に布教なされたと伺っています。

大東亜戦争の終戦後、幾多の困難を乗り越え、帰国されました。霊廟で育てられた弟子達も、それぞれが帰国でき、故郷に帰りました。

大元上人は埼玉県滑川町月輪という所に「月の輪草庵」を建てられ、そこに落ち着かれました。
現在は御廟所となっています。
当時の御上人方はすでに遷化されておりますが、法脈図に示します。

西岡大元上人遷化の後、八代上人・西岡上人・青山上人は兄弟子の渡辺練定上人の弟子となり、寺院住職となりました。

以上はhttp://blogs.yahoo.co.jp/mphfp651/25925033.htmlより


満州国の名刹と風光・・↓  ↓


●1・満州国・・一般風俗・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31798775.html 

●2・満州国・・一般風俗・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31820434.html 

3・満州国・・一般風俗③・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31841151.html

4・満州国・・一般風俗④・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31865374.html

5・満州国・・一般風俗⑤・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31881377.html

6・満州国・・一般風俗⑥・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31898162.html

7・満州の名刹と風光・・奉天(瀋陽)の北陵ほか・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31919516.html

8・満州の名刹と風光・・奉天(瀋陽)の東陵と喇嘛(ラマ)寺・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31936523.html

9・満州の名刹と風光・・奉天城(瀋陽)と市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31956783.html

10・満州の名刹と風光・・首都新京(長春)と市街・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31974071.html 

11・満州の名刹と風光・・新京(長春)の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31993622.html

12・満州の名刹と風光・・ハルピン(哈爾濱)の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32009354.html

13・満州の名刹と風光・・ハルピン(哈爾濱)の町と松花江・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32031681.html

14・満州の名刹と風光・・チチハル(斉斉哈爾)の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32049763.html

●15・満州の名刹と風光・・佳木斯(ジャムス)と牡丹江の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32068554.html 

16・満州の名刹と風光・・吉林の市街と満州幼児の寸描・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32085306.html

17・満州の名刹と風光・・石炭産出地、撫順・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32103030.html 

18・満州の名刹と風光・・鉄嶺と安東(丹東)・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32120285.html 

19・満州の名刹と風光・・遼陽と鞍山・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32137814.html 

20・満州の名刹と風光・・錦州と山海関・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32153319.html 

21・満州の名刹と風光・・承徳の夏の離宮・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32170334.html 

22・満州の名刹と風光・・承徳の喇嘛(ラマ)寺院・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32194577.html    

23・満州の名刹と風光・・金州周辺・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32207513.html 

24・満州の名刹と風光・・大連市街・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32219407.html 

25・満州の名刹と風光・・大連と旅順・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32243045.html 

26・満州の名刹と風光・・満州霊廟建設記念・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/34464614.html 



● 昭和14年・宝塚少女歌劇月組絵葉書・・②

 75年前の「宝塚少女歌劇・月組」絵葉書が母の実家に残っていたものです。

当時は年頃の、母か叔母らが収集していたものでしょうが、大変保存状態も良く、月組リーダーの小夜福子も全盛期ではなかったか・・・と思われます。


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宝塚歌劇・・・  (宝塚花物語)コバルトの女加賀松乃

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    昭和14年3月公演 (月組) 宝塚少女歌劇絵葉書(包装紙)  

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宝塚歌劇・・・   (宝塚花物語)源氏小夜福子

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宝塚歌劇・・・  (宝塚花物語)新之丞鶴萬亀子

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宝塚歌劇・・・  (宝塚花物語)歌手・藤花ひさみ

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宝塚歌劇・・・ (宝塚花物語)水蓮の精・佐保美代子


【補足】昭和初期 女優さんのポートレイト(無声映画時代か・・)

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       裏に「高尾光子」と女優名が記されている。

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            ポートレイト・・・氏名不詳

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         女形も含めての女優さんのスナップ
・            (女形が4人混入している)
(後列左より)     菊村三郎、都木青波、林 敏郎、衣浦小夜子
(前列左より)桝本静夫、三村静枝、馬場房子、森千恵子、五月清子、片山秀夫




昭和14年・宝塚少女歌劇月組絵葉書・・①

75年前の「宝塚少女歌劇・月組」絵葉書が母の実家に残っていたものです。

当時は年頃の、母か叔母らが収集していたものでしょうが、大変保存状態も良く、月組リーダーの小夜福子も全盛期ではなかったか・・・と思われます。

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宝塚歌劇・・・            右 小夜福子


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    昭和14年3月公演 (月組) 宝塚少女歌劇絵葉書(包装紙)

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宝塚歌劇・・・          小夜福子

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宝塚歌劇・・・              右 小夜福子

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宝塚歌劇・・「モロッコの豹」           
左より(アラン・相良昌代)(アリ・昇 道子)(シッド・初霜菊子)(ピエール・小夜福子


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宝塚歌劇・・「モロッコの豹」 (客女・小春涼子)

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宝塚歌劇・・「モロッコの豹」 (ぺぺ・響 千鈴)






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