泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2013年10月

●日本統治時代の朝鮮・・⑬朝鮮総督府、総督府博物館・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 18
ソウルの風光・・・             朝鮮総督府
全朝鮮を統治する最高官庁にて、総工費六百三十余万円を投じ大正14年12月(1925)に8年6ケ月の歳月を費やして竣工したる復興式5階建て、東洋第一の大建築物なりと云う。 
各階の総建坪は実に9,600余坪、中央の塔の高さは180尺あり。


イメージ 1
ソウルの風光・・・    半島行政の中枢、朝鮮総督府の威容

イメージ 2
ソウルの風光・・・            朝鮮総督府

イメージ 12
ソウルの風光・・・           朝鮮総督府

イメージ 21
         在りし日の朝鮮総督府内、中央コンコース(メインホール)

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 3
                  大理石による壮麗優美な床模様


イメージ 19
       朝鮮総督府の正面手前に在るはずの光化門は無い
       更に手前の建造物は、相前後して造営された「京城府庁

イメージ 26
      光化門が移築がされていない時の・・朝鮮総督府

イメージ 20
1972年、位置を移動して光化門が造営された

イメージ 17
ソウルの風光・・・             光 化 門

イメージ 27
ソウルの風光・・・       歴史を偲ぶ 光 化 門 の威容

イメージ 28
ソウルの風光・・・       景徳宮  光 化 門


 【光化門】
  • 李成桂による漢陽遷都(1394年)の際に、景福宮の正門として建設された。
  • 1553年の大火で焼失。
  • 豊臣秀吉の文禄の役(1592年)の際、朝鮮民衆に放火され再び焼失。
  • 19世紀に大院君が民衆を徴発し再建させた。
  • 1910年の日韓併合後、朝鮮総督府がこの門の取り壊しを検討したが、日本の白樺派の美学者、柳宗悦らの働きかけで保存されることになった。
  • 1950年の朝鮮戦争で焼失。
  • 1972年、朴正煕大統領の時に鉄筋コンクリートで再建された。
  • 2010年に位置を移動した上で、扁額をハングルから漢字に変えたものに再々建された。


イメージ 4
  1995年、金泳三政権の「歴史の立て直し」政策と「景福宮復元」の       一環として撤去抹殺された「朝鮮総督府庁舎」

イメージ 5
          朝鮮総督府庁舎のない光景 (左側の青い屋根は大統領府)

イメージ 6
「朝鮮総督府」の廃材処理解体石材が集められ、ソウル郊外、天安市の独立記念公園に利用されたようです・・・直径30m、深さ5mのすり鉢状の穴に石材が使われ、中心に・・・
この石塔はドーム先端の塔。


イメージ 24
ソウルの風光・・・(上より)・大平路より総督府遠望 ・総督府尖塔 ・総督官邸 ・官邸正門

イメージ 7
ソウルの風光・・・          朝鮮総督府博物館本館
景福宮内に在る朝鮮の歴史、美術、工芸等に関する資料を保護集約してこれを展示する。

イメージ 8
ソウルの風光・・・         朝鮮総督府博物館本館


イメージ 13
朝鮮総督府博物館展示品・・・  金銅釈迦如来坐像 (高さ4寸5分5厘)高麗一統時代

イメージ 9
朝鮮総督府博物館展示品・・金銅観世音菩薩立像 (高さ5寸1分4厘)新羅一統時代

イメージ 10
朝鮮総督府博物館展示品・・金銅観世音菩薩像  (高さ4寸5分)高麗時代

イメージ 11
朝鮮総督府博物館展示品・・  金銅菩薩立像  (高さ8寸6分)


イメージ 14
朝鮮総督府博物館展示品・・金銅釈迦如来立像 (高さ6寸6分7厘)新羅一統時代

イメージ 25
ソウルの風光・・・(上より)・総督府博物館 ・昌慶苑 ・景福宮 ・昌慶苑博物館

イメージ 15
ソウルの風光・・・          朝鮮総督府医院




イメージ 16





●日本統治時代の朝鮮・・⑫京城の独立門、南大門・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

 1897年、日清戦争により日本が清に勝利し、下関条約にて清の冊封体制からの李氏朝鮮の独立を認めさせた。
 これにより李氏朝鮮は清の属国支配から解放され、自主独立国家として歩みだすことになり、その記念として清への服属の象徴の一つであった「迎恩門」を壊体し、そのすぐ隣に「独立門」が建設された。

 「迎恩門」は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して「九回叩頭する礼」(九回土下座して
勅使を迎える行事)を行なう場所だった。

イメージ 1
        迎恩門 (現在は、迎恩門柱礎石だけが残っている)

イメージ 19
ソウルに残っている「九回叩頭する礼」のレリーフ
清の勅使の前に、李朝国王がひざまずいている・・・清と韓、服装でも明白な事実。
(ハングルの説明では「清の使者が、朝鮮王にひざまずく姿」となっているらしい)


イメージ 2
ソウルの風光・・(日清戦争終結で清の属国から初の独立)独立門と手前の迎恩門礎石

イメージ 10
ソウルの風光・・・      独立門と手前の迎恩門礎石

イメージ 11
併合前の独立門周辺の風景・・・周辺の樹木は、炊飯用の薪として使われ禿山となっている。

イメージ 12
ソウルの風光・・・   ↑光 煕 門           ↑独立門
          ↑東 大 門                    ↑町のスナップ

イメージ 13
ソウルの風光・・・  南大門前で日韓併合を祝う京城(ソウル)市民

イメージ 15
ソウルの風光・・・           南 大 門

イメージ 14
ソウルの風光・・・          南大門(崇礼門)

イメージ 16
ソウルの風光・・・        南大門の勇姿

イメージ 17
ソウルの風光・・・   憤然と立つ崇礼門(南大門)の姿


イメージ 3
ソウルの風光・・・上=南大門の勇姿  下=南大門内より南大門通りを望む


イメージ 4
ソウルの風光・・・      南大門通りの前方に南大門

イメージ 18
        日本併合当初、城壁沿いに南大門の遠望できる風景


 「崇礼門」(南大門)は、1398年に城郭の正門として建立された。
花崗岩(かこうがん)で造られた土台の上に木造の二重楼閣が建てられており、ソウルにある木造建築の中では韓国最古のものであった。

韓国国宝第一号の「南大門」ではあったが、寒空の2008年2月にホームレスが寝ぐらとしていたらしく、侵入して焚き火したため全焼してしまった。

イメージ 21

イメージ 5イメージ 6









    2013年4月、新築再建された南大門 
(読売新聞)
イメージ 7
     燃焼した花崗岩は、もろくなるので差し替えされているようだ。

イメージ 8


【南大門内、天井画】この国には、正確に復元する思想はないらしい・・↓  (先人が描いた龍は消えて、漫画風、団子鼻の龍が残った)
 上=消失前のもの 下=復元されたもの(まるで漫画そのもの、足も与太っている)

イメージ 20




イメージ 9





●日本統治時代の朝鮮・・⑪京城の宮殿、景福宮と徳壽宮・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓          ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。


 1897年大韓帝国が独立以降、韓国の主要産業は、インフラ利権売却と売春産業などで、輸出する生産物など無いのが常態でした。
 しかも、インフラ利権は、閔妃(ミンピ・高宗の妃)や大院君(高宗)一派の贅沢品や、みすぼらしかった宮殿、徳寿宮・景福宮・昌徳宮等の身の丈に合わない贅沢な改修、増設に殆んどが使われ、すぐに財政破綻を起こして国全体が暴動の世紀末常態となった。
 1909年大韓帝国政府は、朝鮮王族を見限り日本へ併合を申し出て暴動は収まった。

イメージ 1
ソウルの風光・・・        京城 景福宮 勤政殿

イメージ 2
ソウルの風光・・・          京城 景福宮 勤政殿

イメージ 10
ソウルの風光・・・       京城 景福宮 慶会楼

イメージ 11
ソウルの風光・・・ 景福宮 慶会楼前庭での優雅な妓生の四鼓舞

イメージ 12
ソウルの風光・・・        京城王城内 慶会楼

イメージ 13
ソウルの風光・・・         京城 景福宮 慶会楼

イメージ 14
ソウルの風光・・・        京城 景福宮 慶会楼

イメージ 15
ソウルの風光・・・    京城   壮大なる景福宮 慶会楼

イメージ 16
ソウルの風光・・・         景福宮 慶会楼
            紅いお日さん、にこにこ笑ろて、弾む乙女の頬も紅い、
風が浮かれて髪飾りに戯れりゃ、なぜか気になる、気にかかる。


イメージ 17
ソウルの風光・・・        京城 景福宮 慶会楼

イメージ 4
ソウルの風光・・・         京城 景福宮 香遠亭

イメージ 3
ソウルの風光・・・      京城 景福宮 酔香亭(香遠亭)

イメージ 5
ソウルの風光・・・      大理石柱燦然と・・・徳寿宮 石造殿
徳寿宮は元、慶運宮と称し閔妃の邸であったが、後に正宮をここに移され徳寿宮と号した。    この石造殿は皇族ご来城の時、御旗館などに充てられたもので、ギリシャ式大理石柱の壮麗な建物である。

イメージ 6
ソウルの風光・・・        京城 徳寿宮 石造殿

イメージ 7
ソウルの風光・・・                      徳寿宮 石造殿  

イメージ 8
ソウルの風光・・・↑曹釈寺        ↑景福宮 勤政殿    ↑景福宮 香遠亭                ↑徳寿宮 石造殿                     ↑徳寿宮 内裏

●日本統治下・・1931年のソウル市民の表情・・↓



 

イメージ 9





●日本統治時代の朝鮮・・⑩京城の宮殿、徳壽宮と昌徳宮・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

 1897
年大韓帝国が独立以降、韓国の主要産業は、インフラ利権売却と売春産業などで、輸出する生産物など無いのが常態でした。
 しかも、インフラ利権は、閔妃(ミンピ・高宗の妃)や大院君(高宗)一派の贅沢品や、みすぼらしかった宮殿、徳寿宮・景福宮・昌徳宮等の身の丈に合わない贅沢な改修、増設に殆んどが使われ、すぐに財政破綻を起こして国全体が暴動の世紀末常態となった。
 1909年大韓帝国政府は、朝鮮王族を見限り日本へ併合を申し出て暴動は収まった。



イメージ 1
ソウルの宮殿・・・        徳寿宮入口 大漢門

イメージ 2
ソウルの宮殿・・・           徳寿宮 中和殿

イメージ 9
ソウルの宮殿・・・          徳寿宮 咸寧殿

イメージ 10
ソウルの宮殿・・・          昌徳宮 敦化門
昌徳宮正門を敦化門と云う。 昌徳宮は、李朝三代太宗の5年に離宮として建てられたもので、敦化門を入ると右に李王殿、左に仁政殿、続いて宣政殿があり、奥まった処に御座所たる大造殿がある。
イメージ 11
ソウルの宮殿・・・     昌徳宮 敦化門 (李王殿下宮殿正門)

イメージ 12
ソウルの宮殿・・・     昌徳宮 敦化門 (李王殿下宮殿正門)

イメージ 17
     韓国皇太子、李王垠(↑印)の北海道御巡啓記念   明治40年(1907)8月

イメージ 18
           大韓帝国皇太子、李垠(イ・ウン、純宗の弟)と伊藤博文

イメージ 13
ソウルの宮殿・・・          昌徳宮 仁政殿

イメージ 19
ソウルの宮殿・・・       昌徳宮 仁政殿と秘苑

イメージ 14
ソウルの宮殿・・・           昌 徳 宮
李朝太煕王の離宮を、明治40年李王殿下之に理らせられ修復が加えられた。中央が仁政殿。

イメージ 15
ソウルの宮殿・・・          韓国陛下玉座

イメージ 16
ソウルの宮殿・・・        京城 昌徳宮 宙合楼

イメージ 3
ソウルの宮殿・・・       昌徳宮 秘苑内 宙合楼

イメージ 4
ソウルの宮殿・・・        京城 昌徳宮 秘苑

イメージ 5
ソウルの宮殿・・・       昌徳宮 秘苑内 尊徳亭

イメージ 6
ソウルの宮殿・・・       昌徳宮 秘苑内 映花堂

イメージ 7
ソウルの宮殿・・・       昌徳宮 秘苑内 玉流川





イメージ 8





●日本統治時代の朝鮮・・⑨木浦、論山、扶餘、公州、報恩の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓          ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。




   [新義州]-[義州]            [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 2
木浦の風光・・・         木浦栄町方面を望む

イメージ 20
木浦の風光・・・          木浦港 東海岸

イメージ 21
木浦の風光・・・        木浦港内、霊岩島の絶景

イメージ 10
群山、木浦の風光・・・
↑ 全北、忠南両道物資の唯一の集積地として、盛況を示す群山港埠頭。
港町、木浦にある松島公園池畔での芸者さんの寛ぎ ↑


イメージ 11
論山の風光・・・        論山 灌燭寺 恩津彌勤菩薩

イメージ 12
論山の風光・・・    論山 灌燭寺 恩津彌勤(江景の東二里半)

イメージ 13
論山の風光・・・       論山 灌燭寺 恩津彌勤 (石造大仏)

イメージ 14
扶餘の風光・・・              扶餘 扶蘇山

イメージ 15
扶餘の風光・・・      扶餘 平濟塔の夕照(石造五重塔)


イメージ 16
扶餘の風光・・・             扶餘  皐蘭寺

イメージ 17
扶餘の風光・・・          扶餘 水北亭晴嵐

イメージ 22
扶餘の風光・・・         扶餘 水北亭及び自温台
水北亭は窺岩津に接し自温台の接丘にあり、江に斗出する処に奇岩あり、其の上、平らにして三四人を座すべし、昔義慈王ここに遊びし時、後臣王の行くを伺い、予め火をもって之を温め、王之を異とし名付けて自温台と云う。

イメージ 18
扶餘の風光・・・   扶・・・百済滅亡の哀史を秘める白馬江畔の大点景

イメージ 19
扶餘の風光・・・        百済軍 倉跡を日本学者が調査
半月城軍倉庫址にて扶蘇山上にあり、当時、傭兵に配りたる米麦豆類が今なお地中に存す。

イメージ 3
                  のどかな村落風景

イメージ 4
公州の風光・・・        百済の旧都公州 錦江
汪洋蒼碧たる錦江の玉水、山卿を巡りて半月を画き、鬱蒼たる松林は白砂と相まって、眺望はまた雄大、その景趣さぞかし湖南稀有のものたり。

イメージ 5
公州の風光・・・     京釜線 芙江 錦江河畔の風景


イメージ 6
報恩の風光・・・    忠清北道 報恩  法住寺 本堂と五重塔

イメージ 7
      将軍標・・・"ねんねしなしな眠らぬ坊は、村の外れの悪魔にや~る"
"悪魔払うたこの私が、何でこんなに苦労する"

イメージ 8
将軍標・・・村人が病疫除去のため、呪いとして立てている随分奇怪な風習の表れである。
しかし、旅人はそれによって一層異郷に興味を覚えるのである。




イメージ 9




●日本統治時代の朝鮮・・⑧釜山、鎭海、大邱の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

    寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 2
釜山の風光・・・         黎明期の釜山港 (下の2枚の連結)

イメージ 13
釜山の風光・・・          黎明期の釜山港

イメージ 19
釜山の風光・・・         黎明期の釜山港

イメージ 27イメージ 28










             現在の釜山港 (ほぼ同じ角度で写された写真)

イメージ 20
釜山の風光・・・      埠頭横の釜山停車場 (釜山駅)

イメージ 33
釜山の風光・・・   朝鮮全半島の大玄関たる威容を示す釜山駅

イメージ 34
釜山の風光・・・      朝鮮半島への玄関口、釜山駅

イメージ 21
釜山の風光・・・    関釜定期船の釜山桟橋に横着けの盛観

イメージ 22
釜山の風光・・・          釜山海陸連絡状況
下関・釜山間連絡船は昼夜2回この地を発し、桟橋上の列車に連絡す。航海11時間なり。

イメージ 23
釜山の風光・・・        釜山における海路連絡設備
下関・釜山間の航路は、3,600tの汽船3隻が定期連絡し、旅程9時間、釜山埠頭停車場に於いて汽車に連絡す。

イメージ 29
釜山の風光・・・ 釜山港における関釜連絡船

イメージ 30
釜山の風光・・・関釜連絡船、金剛丸の姉妹船として堂々玄海を渡る興安丸(国鉄)
戦後は・・シベリア抑留捕虜引揚船(ナホトカ~舞鶴)として活躍した。

イメージ 31
釜山の風光・・・  東洋一を誇る釜山大橋(渡津橋)の開橋状況

イメージ 24
釜山の風光・・・          釜山西部市街の展望

イメージ 35
釜山の風光・・・             東莱の洗兵門

イメージ 3
釜山の風光・・・           釜 山 税 関

イメージ 4
釜山の風光・・・          釜山商業会議所


イメージ 5
釜山の風光・・・釜山商業会議所、付属商品陳列館   釜山理事庁、釜山居留民団役所


イメージ 6
釜山の風光・・・           釜山、慶尚南道々庁
慶尚南道は気候に恵まれ、海岸線の湾曲多く山野も適当に分布し、原野開けて作物豊かに、人口密度は各道中第2位。これを統括する道庁は威容よくその活況を語る。

イメージ 7
釜山の風光・・・    麗しの泉境・・釜山、東栄温泉場
釜山の北方約12km、交通の便よく風光の美しい閑静な泉境、朝鮮一の温泉と云われ、豊かに溢れる霊泉は胃腸、神経、婦人病に有効である。


イメージ 37
大邱の風光・・・        大邱駅舎の雄姿
          南朝鮮第一の商業都市大邱の大玄関。

イメージ 8
大邱の風光・・・           大邱の市場
朝鮮では従来、日常生活の必需品は殆んど市場で取引されている。
大邱の市場は朝鮮でも有数の大市場で、当日はごったがえす盛況を呈している。

イメージ 9
大邱の風光・・・          大邱府 西門市場

イメージ 10
大邱の風光・・・         大邱府 西門市場

イメージ 26
大邱の風光・・・           伽耶山 海印寺

イメージ 25
大邱の風光・・・           伽耶山 海印寺

イメージ 32
大邱の風光・・ ↑ 商都の玄関・・大邱停車場    湖南線の分岐点・大田停車場↑

イメージ 36
大邱の風光・・京釜鉄道開通式記念  寄覗墜道東口洞門及び仮迂回線  明治38年5月15日

イメージ 11
大邱の風光・・・           大邱神社正面

イメージ 12
大邱の風光・・・            大邱神社

イメージ 14
 鎭海の風光・・・      天子峯の絶景・・在郷軍人の登山

イメージ 15
鎭海の風光・・・             桜田通り

イメージ 16
鎭海の風光・・・           鎭海防備隊正門

イメージ 17
鎭海の風光・・・         鎭海名所・・・羽衣の松





イメージ 18





このページのトップヘ