泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2012年09月

 1969年5月に国連アジア極東経済委員会が発表した「東シナ海の海底調査」により日台周辺は「世界的な産油地域になるであろう」と石油資源が眠る可能性を示した。  これにより
1971年6月11日に・・・「台湾」が尖閣領有権を主張
1971年12月30日に・・「中国」も尖閣領有権を主張するに至ったのです。


 中国・台湾両国は、この時以降発行する地図には、巧みに日本との国境線を尖閣を取り込む描き方をして、更に「魚釣島」表示を中国読みの「釣魚島」表示に変更し、日本呼称の「尖閣群島」表示を抹消するなど、既成事実捏造に暇がありません。
 これらは地図印刷所が許可無く処理しているものではなく、国家の指示に基づいて、それなりの陰謀のもとで行われている行為は明確な事実なのです。 
 大国の面をして姑息な行動が常態化している、正に独善国家のなせる業です。

 在中国・日本大使館は中国で発行される地図を、逐次チェックしているのでしょうか? 国益に適った任務を追行しているのでしょうか?
 もっと、外務省はがつがつ疑問を指摘して、中国の不正を正してみろよ!
 大使館・外務省さえ、しっかりしておれば、中国の戯言など論破できている筈です。

 「隙あらば掠め取る姑息な中国」に対して「意志薄弱の日本政府」は、この時とばかりに「いいカモ」にされているのが判らんのか?

 先送りは波乱の礎、嘘でも百年言い続けると、真実になってしまうのですぞ!。

 以下、「泥棒国家・中国」の詐欺まがいの手口を、地図上で見てやってください。


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1879年 琉球藩廃止、沖繩縣開設時。
1879年3月 松井忠兵衛編製、內務省審查通過出版大日本全図魚釣島列嶼図
魚釣島=和平山、南小島=凸島、久場島=黃尾嶼、大正島=嵩尾嶼。



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     1946年1月29日より米国統治時代の琉球・奄美諸島図


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1971年6月17日調印
1972年5月14日・・日本へ琉球復帰、琉球政府から沖繩県庁へ継承

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   復帰後 自衛隊員による尖閣列島内魚釣島の岸壁に國旗國名表示


 これより中国版地図関連資料(呼称表示に注意)
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1958年11月 北京地圖出版社編輯部編地圖「日本之部」に
魚釣島表示、日本領土の內、尖閣群島表示



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     1960年4月 北京地圖出版社發行《世界地圖集》第一版の日本地圖、
    これも魚釣島表示、日本式表示。 


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玄葉外相は、「尖閣国有化」で揉め始めて1ケ月半後の2012年10月10日、やっと「60年の中国発行地図に日本領土であると書いてある」と述べた。 ちょっと遅いんだよ!

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1965年10月台湾國防研究院及び中國地理學研究所合編出版の世界地圖集第一冊東亞諸國分、魚釣島表示、尖閣群島並記。(○印国境)


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1969年中華人民共和國國家測量総局發行地図尖閣群島表示、魚釣島表示

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    1960年代の海図 尖閣群島表示、魚釣島表示

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1951年版 中華民国、初中学地理45頁中、琉球群島位置は北緯24度30分 東經122度半から131度の間、径緯度明確に包含、魚釣島表示。(○印が国境)
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1971年 蔣介石が主張を開始・・釣魚台は中國固有の領土である。
【並行して地図改ざんが始まる。】

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1972年 台湾國防研究院及び中國地理學研究所合編出版の世界地圖集第一冊東亞諸國分、釣魚台列嶼と改名し国境線変更  ○印が国境線 

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   1960年1月分の再版で1973年頃《民國中学地理第四冊》 
      尖閣群島を釣魚台列嶼と改名し国境線変更



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1961年8月分の再版で1978年頃《民國中学地理第四冊》
尖閣群島を改名→釣魚台列礁
に改竄。


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 この中国地図から「尖閣群島」(日本名呼称)の文字が消去された。
1972年北京地圖出版社發行、福建省台湾省政區地図中,台湾右上の1、2の数字。  地図左下欄外に小字で説明・・1、釣魚島 2、赤尾嶼。



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 1972年12月、再版日本地図には堂々と中国表示で釣魚島と赤尾嶼と表示し始めた。尖閣群島(日本呼称)の表示なし

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その後、台湾省ならまだしも、釣魚台は福建管轄の島嶼として組み入れられた。もちろん尖閣群島の表示ナシ。正に独善的なご都合主義捏造

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そして現在、地図上の「尖閣群島」は中国の最新日本地図から公然と、堂々と、抹消されてしまったのです!  
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●中国は他国が指摘し咎めないから、着々と既成事実を構築中なのです。


それにも増して中国は「南シナ海全域が我が領土」という厚顔無恥な主張をしております。(ベトナム沖、フィリピン沖、ボルネオ沖にまで国境線を伸ばして領海を主張=九段線・・(下の地図参照)

正に傲慢な泥棒国家、中華人民共和国のでたらめな主張であります。
(南支那海ぜ~んぶ俺のモノ!)
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2012年、
9月5日、日本政府が「尖閣諸島の買取表明」をしたことにより、すぐさま中国と台湾は、盗人猛々しい恫喝めいた声明を発表しております。

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 沖縄返還後40年にわたり、日本政府は尖閣諸島を港湾設備も灯台すらも造らず、調査員すらも立ち入らせず放置してきました。
 常時「領土問題は存在せず」とは申しながら「立入禁止」のまま無人島として放置しているのですから、中国や台湾に付け込まれるのは当然のことで、政府が自ら招いた「領土問題」と言えます。

 1969年5月に国連アジア極東経済委員会が発表した「東シナ海の海底調査」により日台周辺は「世界的な産油地域になるであろう」と石油資源が眠る可能性を示した。  これにより
1971年6月11日に・・・「台湾」が尖閣領有権を主張
1971年12月30日に・・「中国」も尖閣領有権を主張するに至ったのです。


 中国・台湾両国は、この時以降発行する地図には、巧みに日本との国境線を尖閣を取り込む描き方をして、更に「魚釣島」表示を中国読みの「釣魚島」表示に変更しております。
 「隙あらば掠め取る精神の中国」に対して「意志薄弱の日本政府」は、この時とばかりにカモにされているのです。

(参考地図表示は次回記載予定)

尖閣諸島・・改ざんされる尖閣地図・・外務省の怠慢②・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/30004744.html

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              尖閣諸島を巡る主要経緯

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1879年 琉球藩廃止、沖繩縣開設時。
1879年3月 松井忠兵衛編製、內務省審查通過出版大日本全図魚釣島列嶼図
魚釣島=和平山、南小島=凸島、久場島=黃尾嶼、大正島=嵩尾嶼。


明治28年(1895)1月14日、日本政府裁定「內務大臣請議、位於沖繩縣下八重山 群島西北に位置する久場島、魚釣島等無人島、認應為沖繩縣所轄、 標杭建設の儀、同縣知事之申請の通り許可す」 内閣総理大臣 伊藤博文
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号外1896年8月(琉球新報)日本政府內務省より使用免許、期限30年を條件、魚釣島、黃尾嶼を古賀辰四郎が租借。古賀辰四郎は魚釣島に小型碼頭の建造、海產加工工場、宿舍等建築物並びに芭蕉種植、甘蔗、甘藷等 農作物の種植を行う。
1909年內務省へ報告移民有90戶、共248人、開墾面積有六十多畝。
11月古賀辰四郎は明治政府より藍綬褒章授章。

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               黄尾島=久場島

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明治33年 久場島全景と集落

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明治33年 南小島の浜辺


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明治期、魚釣島西北部和平山事務所

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魚釣島の従業員一同


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岩場を開削した岸壁と人夫・・・魚釣島

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       鰹節工場で加工されたカツオブシ・・・魚釣島

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明治期、魚釣島西北部、和平山事務所


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           攝於島上鰹節工場の古賀辰四郎


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             古賀辰四郎と従業員たち

1918年(大正七年)  古賀辰四郎の魚釣島事業を、其の次男 古賀善次が継承。
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        魚釣島謄本及び古賀家魚釣島事業推薦書
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      南小島開墾遺跡 、沖に見えるのが魚釣島

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魚釣島・鰹節工場遺址(矢印)と簡易灯台

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                魚釣島の掘削岸壁
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1952年 魚釣島鰹節工場遺跡


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           久場島に残る古賀家の人工築道


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魚釣島、千早丸遇難紀念碑・・・
戦争末期の1944年7月、石垣島から台湾への疎開船2隻が米軍の爆撃を受け、1隻は炎上沈没した。残り1隻でなんとか尖閣諸島魚釣島に漂着し集団生活を送ったが、食糧がなくなり餓死者も出た。
この遭
難で約80人が亡くなり碑に刻銘されている。



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戰後、琉球大學高良鐵夫教授が魚釣島内の生態調查をした

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1946年1月29日より米国統治時代の琉球・奄美諸島図


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1967年發行の米軍地図、尖閣群島標示は日本領土

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1956年米軍西表島地図の内・・魚釣島は日本領土

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      米軍委託管理時期に於ける魚釣島千疊岩警告碑


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1919年冬、一艘の福建省漁船が暴風雨漂流に遭遇し魚釣島に漂着、島民が救護した。在留中の古賀善次等は熱心に救護、遭難漁船「金合號」の船主兼船長郭合順等31名船員を半月後台湾を経由、福建まで護送した。翌年(1920)5月,中華民國政府から海難に対する義勇を感謝、駐長崎領事馮冕代表は政府からの感謝狀を古賀善次等七個人に贈った。感謝狀に明確に記入された海難發生場所は「日本帝國 沖繩縣 八重山郡 尖閣列島」である。




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