泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2011年06月

村民が育った、かけがえのない故郷・・・               ①その故郷を、捨てざるを得ない状況が続いています。 避難生活を・・2年もやれば晴れて帰郷・・・が叶うのでしょうか?   京大の小出裕章助教は『100年は無理でしょう・・』とのことです。 

誠にお気の毒なことです。
福島県浪江町、飯館村、双葉町、大熊町、富岡町、川内村、葛尾村、川俣町、南相馬市、田村市、楢葉村、広野町、の皆さん・・・
避難先で誕生した赤ちゃんが、100歳になってから戻れるのです。

つまり、赤ちゃんの古里は「避難先」となったのです。

ええ加減な原子力の取り扱いで、避難民10万人が露頭に迷う、深刻な現実が始まっています。

http://www.youtube.com/watch?v=fjklBl0A9Kc 

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②福島市、子供の尿検査で体内被曝の危機・・・  ・・遅かりしの前の対策が必要・・小出先生MP3tube音声

放置された家畜は、屍となり、ウジがわき、蝿の大発生となる・・・       ③農水省、JAは、家畜の移転に何ら対策を講じた形跡がない。 ・・・お粗末なことです・・・

http://www.woopie.jp/video/watch/8db9a15e62aafb28?kw=%E3%80%8C%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%99%BA%E8%AD%A6%E6%88%92%E5%8C%BA%E5%9F%9F%E3%80%8C%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%8D&page=1

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福島県内、小中学校放射線量マップです・・・
福島市、郡山市、二本松市、伊達市の皆さんは、
ご存知なのでしょうか?

避難地域外でコレですよ・・・学童疎開の必要はないのでしょうか?

私は一大事と見ています・・・
政府は「安全だ!」と言っていますが、計測数値は「危険だ!」を示しているのです。  数値こそが真実なのです。

4/7の計測ですが、最新版となっております。
子供たちのためには、迅速な対応を講じる必要を 感じますが・・・
http://atmc.jp/school/


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小出裕彰教授(京大原子力工学)の話から・・7分あたり注意↓

http://www.youtube.com/watch?v=YR-e_M5lE2k&NR=1


①・・6月18日付けで、汚染マップが・・・
群馬大学から発表されていますね。↓ 
http://gunma.zamurai.jp/pub/2011/18juneJG.jpg
 
  福島第一原発から放射性物質の大量放出があった3月15日午後、北西方向に放射性物質の雲が広がっていたと見られ、「雲の通過と降雨が重なり、高線量の地域ができた」ようだ。
 
 微粒子の大気拡散に詳しい群馬大の早川由紀夫教授(火山学)は4月上旬、民間による測定や国の公表データをまとめ、同原発から半径約300キロ・メートルの汚染地図を作成した。
 茨城県南部から千葉県、埼玉県、東京都の一部にかけ、周囲より放射線量の高い帯状の地帯が現れた。
 「一帯は海側から吹く風と、山から下りてくる風が関東平野上でぶつかり、雲を形成して雨を降らせる場所。都の水道水から放射性物質が検出されたのも、これで説明できる」と、早川教授はみる。
 (2011年6月18日16時03分  読売新聞)・・

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作ったはずの安全装置・・・なぜ「最後の砦」を廃棄してしまったのか?

②「福島第一原発の安全装置は8年前に外されていた」↓

http://news.livedoor.com/article/detail/5605632/ より

原口一博氏:これまで当局の発表は「どんなことがあっても原発は安全です」というものでした。
原発の冷却システムを作ってきた、佐賀大学元学長の上原先生が指摘しているように、蒸発系の冷却システムがあれば、電源喪失しても蒸気が出ている限り循環するので安全だったんです。
なのに、事故が起きている。おかしい、「作ったはずの冷却システムはどこにいったんだ!?」となった。
そこで4月3日、私が東電に直接行って、「冷却系の蒸気系のシステムがどこにあるか?」と聞くと、担当者は「ないんです」と言うんです。
ないわけない。作ったんだから。という押し問答の末、原子力安全委員会の議事録を読むと、平成15年の自民党政権の時代に、ECCS(非常用炉心冷却装置)の中の冷却系の蒸発システムが取り外されていたのです。

なぜ、そんなことをしたのでしょうか。
「ベントするから大丈夫」というんです。
皆さんご存知のように、ベントは放射能を原子炉から出すことですが、「放射能を出すから、安全冷却システムがいらないんだ」という理屈だったようです。これは全く理解できません。
安全装置を取り外さなかったら、このような大災害は起きなかったのではないでしょうか。
少なくとも福島第一原発の「冷却システム」は全て取り外していることが分かりました。

なぜ原子力安全委員会は「最後の砦」を取ったのか、他の原発はどうなっているのか
を今、調査しているところです。 
誰かが「取れ!」と進言しているのです・・・

これを見ると・・・・・
水素爆発4発、メルトスルー3発は、起こるべきして起きたのですねぇ・・・】
役立たずの安全委員会と保安院!、その上腰抜け学者は貝の様に、口をつぐんだままですね】


2~3年かけて、抜本的対策を講ずる(約30人の安全委員会専門部会で)・・・なんて、悠長なことを言っている間は、今まで同様ろくな事は決められない。 原子炉が稼動している以上、半年でやるべし・・・】

斑目は原子力安全委員長と云えども・・・ 所詮は学者ですなぁ・・       研究には熱心だが、対処の方法、指示はただうろたえるばかりですか・・? 正に「でたらめ委員長」と言われている所以ですね・・・ 

●6/15・・日本テレビ・・「ニュースZERO」 (22:54~)         斑目原子力安全委員長へ村尾キャスターのインタービュー↓    不備を平気で黙認・・・これが「安全委員会の実態」ですよ!

http://www.youtube.com/watch?v=qwgXsJvZLFY
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 福島第1原発の現状と今後について、真剣な意見が斑目委員長から出ると期待していました。
ところが原子力安全委員長としての、かけらも感じ取られなかった内容でした・・・・以下その内容。


  ①「事故を防ぐことに自分自身、全く役に立たなかったと恥じている」 「事故を防げたのではないかという意味で防げたと思うが、それが出来なかった。はっきり言って人災だと思う。」

   電源が喪失したときの安全指針について、「電源が喪失することは無いと書かれている項目を飛ばし読みしたので、書かれていたような気がするが・・・電源があることを前提とした対策しか、指針に書かれていなかったことについては、対策の甘さが露呈した」
指針は見直されないまま原発は津波に襲われ、事故が発生した。

  「この不備に気付いたのは3月初めで、見直しを始めた矢先、時既に遅し」と話す。


 事故発生後の現場の対応については「見事な対応処置と思う」と話し事故後の対応に問題はなかったと主張した。
  翌日、首相に同行視察したが・・・
  「突然連れて行かれた、事故についての情報も乏しくアドバイスどころではなかった。
事故による4日ほど不眠で、何を喋ったか記憶が飛んでしまっている」
と話した。

  官邸で情報が乏しければ「事故対策室へ東電、保安院、安全委員会を集結させて、情報を集約させろ」くらいのことは言えないのでしょうか?

 ④「3号機の爆発はテレビで見た。水素爆発だと思った。高温、高圧の状態で時間が経てば、
水素が漏れることを想定できなければいけなかったが、事前にそこまで想い至らなかった」
との事。
 東大教授で、この程度の能力ですか?
 意見も言えず、指導も判断も出来ないはずですね・・・こりゃ駄目だ!

 ⑤事故後早い段階で燃料棒が溶け落ちメルトダウンが発生し、メルトスルーも起きたと見られている。政府がそのメルトスルーの可能性を公式に認めたのは月(報道は5月)だった。
  内部資料 によると4月12日には可能性が指摘されていた。遅れたことについては・・・
  「4月12日付メルトスルー報告の内部資料は見ている、私も混乱していた。確実なデータにこだわり、遅れたと思われる」と答えた。

 ⑥スリーマイル時の米科学者は、「日本では、NRCのような組織が成り立ちうるのかはわからない。NRCのように原子力規制のプロをもっと育てないと安全は守れない」と話していたが、
「私自身、規制のプロではないし、とても判断できない。規制のプロを育てないといけない。」

 この国家存亡の時に判断力、実行力のない人間を、この「原子力安全委員長」に選んでいたことは、人災としか言いようが無いですね。

 このような危機管理に対しては、冷静にその対処策を判断できる人が、指示しなければならない筈です。
 原子力安全委員長として「当事者意識が全く無し・・」
の無責任ぶりです。
常に逃げ口上、うろたえて右往左往の末、的確な指示が出せず、何を言ったのか覚えていない東大教授を、このトップに据えてしまっていたのです。

責任逃れの言い訳しか出てこないのが、日本を代表する原子力工学者でしょうか?
「押し黙ったままの専門家」のナマの声を、我々は聞きたいのです!
こんな時に何処に隠れている?!

有識者会議や政府の人選ミスとしか言いようが無いでしょうね。



●作業員の内部告発で事故は予言されていた・・

http://www.youtube.com/watch?v=W_mtuY9ejpQ&NR=1

気に成るサイトがあります・・・ 週刊朝日2002年9月20日号配信       ●「福島原発は欠陥工事だらけ」・・・担当施工管理者の告白

http://www.wa-dan.com/article/2011/03/post-84.php

●「安全委員会が専門家の現地派遣行わず」・・人ごと、やる気なし

http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011041601000718.html

●「浜岡原発2号は地震に耐えられない」・・・設計者語る

http://www.mynewsjapan.com/reports/249

●「東電の対応は適切だったのか?」・・・仏ルモンド紙 水素発生の見落とし・・放水の遅れ・・

http://ameblo.jp/louis323/archive1-201104.html

4号機には使用済み燃料棒が、プールに保管されております。         雨ざらし状態の筈です。         高熱による、冷却水の枯渇でなければ良いのですが・・・?

●福島第一より北西方向へ汚染が飛散された時の映像です!


●「4号機、6/14・・未明の怪?」(ライブカメラ)・・・  http://www.youtube.com/watch?v=k-EDceWFovc&feature=player_embedded



4号機が蒸気に包まれる前に、4号機中央上部に水蒸気の強烈な柱が見える。
尚、2:00~3:00の画面にも約100mの蒸気柱となっている・・・これを何と見るか?


http://www.youtube.com/watch?v=CrffE86ewYw&feature=related


3:00~4:00の画面・・・途中で海風(東風)に変化し、再び自らの霧に包まれる。

http://www.youtube.com/watch?v=vThV0k3IZEc&NR=1

【2013.2月・・・補足】
この地域の放射能汚染は、この14日の水蒸気の飛散によって汚染されたと確定されております。


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「原発事故検証チーム」が、いよいよ本日始動いたしました。
今回の原発事故の、あらゆる不条理を徹底的に解明してくれるものと信じております。


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テレビでお馴染みの、あの愉快な先生・・・武田邦彦工学博士が仰ってます。
●『私たちは一体何を間違ったのか?』 ↓
http://takedanet.com/2011/06/110527_f21e.html


第1に、「軽水炉」は「核反応が爆発的に起こる」ことが「自律的に防止」できると思っていたからです。
第2に、若干の誤解をもたらすかも知れませんが、簡単に言うと「崩壊熱を忘れていた」ということです。
第3に、「技術は事故が起こることを考えておかなければならない」ということを忘れていたこと、
に集約されると思います。


そして、知識もあり分別もある人たちが、こんな簡単なことを忘れた深層の理由は、
1)   ●自分たちは偉い!・・・
   「判断力がある」と思っていた。

2)   ●国家の支援を受けていた。

3)   ●原子力村の利権にまみれていた。
・・・を上げることができるでしょう。


 原子力発電の危険性は、何をさておいても「放射性物質が漏れる」ということにあり、それを防ぐには「核爆発」を防止すれば良い、それがもっとも大切なことだという考えは、私も含めてほとんどの原子力の関係者が強く「信じて」いたことです。
 私は日本原子力学会から、個人では始めて「原子力平和利用特賞」という輝かしい賞をいただき、それを誇りにしていました。
原子力は平和目的で利用すれば人類に貢献できると信じていたのです
 また栄誉ある賞をいただいたのだから、なにか原子力に貢献したいと思っていましたが、
それがこんな形になろうとは私の知識も判断力も貧弱なものでした。
・・・・・・・・・
やはり「軽水炉の過信と崩壊熱の軽視」が第一の原因でしょう。
「水」があると低いウラン235でも爆発します。
だから「水を減速材に使う軽水炉」というのが誕生したのですが、しかも「水」は反応が暴走し始めると蒸発して泡が出来、中性子を減速しなくなるので、そこで反応が止まるという特徴もあります。
 この水の持つ、余りに素晴らしい性質に目が奪われ、水を使っているなら大丈夫だという錯覚が生まれたのです.
 人間はある錯覚にとらわれると、そこで思考が停止して、「軽水炉は少しの放射性物質は漏れるかも知れないが、チェルノブイリのようなことにはならない」と信じ込んでしまったのです。

 「核爆発」にとらわれて『崩壊熱によって水素爆発または水蒸気爆発をして、それまでに炉内にあった放射性物質が大量に漏れる』ことに考えが及ばなかったのです。
・・・・・・・・・
そして、今でもまだ多くの原子力技術者は思い至っていないのですが、
「技術はどんなに信頼性が高くても、事故が起きることを想定しておかなければならない」(起きるとすれば、どんな事故が起きるか・・? その対処は・・? 地震、津波、台風、竜巻、テロ、操作ミス、誤作動という基本中の基本を忘れていたか、あるいは考えたくもないとしていたのです。


危機を予測できず、備えを怠った・・これは東電首脳部の職務怠慢ですね)
・・早く言えば素人。素人ならば、なお更の事、これら基本が大事です・・

●「助言を無視・・東電の不作為は犯罪的だ」・・・IAEA元事務次長 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110611/erp11061120230007-n1.htm 



●国を代表する原子力工学者、お歴々の深刻な現状認識です・・・↓

●歴代原発推進学者が自己批判・謝罪。事態の深刻さも強調http://financegreenwatch.org/jp/?p=1236

●いわき講演・・ 武田邦彦 2011.6.5↓  

http://www.youtube.com/watch?v=OXpPIssyDuI&NR=1

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http://morimori5555.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/05/01/hotspot001.jpg  ホットスポット早見表

原発周辺・・線量マップ ↓
http://www.naver.jp/radiation?type=fukushima

樋口健二・・・報道されない福島原発大事故の真相↓



第76話 井上のおっちゃんと『火縄銃』 (内子)昭和25年頃

曾祖母のマツの弟になる「井上のおっちゃん」が近所に住んでいて、子も無く独り身のようだった。
つまり忠兵衛祖父ちゃんの叔父さんにあたる人だ。
第61話(http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9866697.html)の後半に「マツ」さんの話が出てきます。(参考)
 マツの実家だろうが、井上の家は内子町本町一丁目の福岡米穀店の裏辺りになるが、小さな2階建てで、その裏手は中町の久保製材所(久保茂十郎)の広大な敷地の、従業員休憩所付近に接していた。
 
 井上のおっちゃんの名は、井上 定(さだむ)だったと思うが、マツが元気だった終戦直後頃は青っぽい絣の着物を着て、時々、姉のマツを訪ねて森並の家へ出入りしていて、僕らにも時々「遊びに来いや」と声をかけてくれたので、久保製材の材木置場を通って、二、三回遊びに行った記憶は残っている。
 その時に、子供には持てそうに無い「ずっしりと重い火縄銃」を見せてもらった。
 「江戸時代の鉄砲で、井上に残っとったもんじゃ。 内の子騒動の時、使うたかどうか判らんが、用意しとったらしいのじゃがの・・・」と言うような説明をしてくれたと思う。

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 砲筒は直径5cm程あり、八角形で「雷筒」か「雷砲」の文字が入っていたと思う。
 銃口の穴は確か直径1.5cm弱で「大きな銃弾じゃな~」というような気がした。

 当時、マツが95歳であったから、井上 定さんは90歳前であったようだ。
 祖父ちゃんの妹、惣川村(野村町の奥)へ嫁いだ「脇田ひで」さんが身元引受人をしていたようで、ひでさんの息子の一人、晶さんが井上姓を継いでいた。

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 大洲町、内子町周辺、当時の無数の市町村名・・・

 ひでさんがマツを尋ねて里帰りした時に、息子二人を交代で連れて来たりしていた。
 弟は小学校の教員をしているようで、そんな時、私ら兄弟の相手もよくしてくれていた。
 マツとひでの話の中に「さだむさん」の名がよく出てきたので、「井上のおっちゃんの名じゃ」と僕は感じていたと思う。
祖母ちゃんのタキノが時々「井上のおっさんとこは、小金を貯め込んどいでるけん、床の下に銀貨の入った壷を、二つほど埋めといでるそうじゃ・・」と話していた。

 井上のおっちゃん所有の「松林の山林」が、植松の山頂の奥に、広さ2,000平米くらい在った。
 祖父ちゃんが時々「井上の山の下刈りをするけん、薪物(たきもの)を持って帰ってくれ」と僕らを誘って、頻繁にそこへ「負いこ」を背負わせ連れて行っていた。
 
 一人幅の植松の山へ登る細い山道を山頂まで登り、右へ稜線に沿って幅1.5mの、柳沢方面菖蒲に抜ける道を1kmほど行くと、やや登り坂で、緩やかな左折カーブの場所から右折急カーブの場所まで、雲母岩むき出しの山道に面して右側がその場所であった。
 山道周辺は赤松林で、日差しの入るところには春蘭が咲いていたり、節句の時期には「巻きバッポ(柏餅)」用のサンキラの葉を取りに行ったり、秋には鼻で嗅ぎまわり乍ら松茸を探したこともある。

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「巻きバッポ(柏餅)」用のサンキラの葉

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 森並の母屋の1階の天井板を張り替えた時は、その井上の松林から、祖父ちゃんが松材を間引きして、それに楔を打ち、ロープを引っ掛けて、祖父ちゃんと俊光と3人で、各々1本づつを引いて帰り、矢野製材で板材にしてもらう・・・これを何度も繰り返した。
 その頃、西側の大壁の補修もしたので、郷の谷川上流、古天神下辺りで、水色の粘土を掘り、バケツで何度も運んだこともある。
この粘土を、左官屋さんが漆喰に混ぜて、外壁の上塗りをしていったのでした。

 小学校6年生か中1の頃だったか、その井上のおっちゃんが亡くなった。
 学校から帰ると祖母ちゃんが「今日は井上のおっさんのお弔いじゃけん、今から(およばれ)に行っといで・・・祖父ちゃんも行っといでるけん・・・」ということで、そそくさと出向いていった。
 二階へ上がってみると、井上晶さんと祖父ちゃんの兄弟姉妹中心の「葬送の宴」の最中で、末席の木本 薫さん(祖父ちゃんの妹)の横へ坐ると、茶碗が足りなかったのか「祖父ちゃんの、食べ残しの茶碗に、ついだけんな」と、ちらし寿司が出てきて、それをおいしく戴いた。
 喉が渇いていたが、宴が終わりに近かったせいか、二階のため湯の補給が出来ないからか、お茶が出なかった。

 弔いの宴はほど良く終わり、僕がほしいと狙っていた「火縄銃」を、きょろきょろと探してみたが、火縄銃は何処にも見当たらない。
 若し有れば、祖父ちゃんに頼んで「晶さんに一言、無理を言って貰おうか・・」と考えていたのだが・・・その現物が無いぞ。
 「無ければ・・しゃぁないか・・」と半分諦めて、階段を降り、下駄を履いて帰ろうとしたところ、壁際の割木(薪)置き場に、火縄銃の木製部分「銃座」が、1mほど積まれた割木に紛れて無造作に積まれていた。
 割木(薪)より長いのと、銃尻の細工で一目瞭然でした。
 「銃尻だけあった! 割木と一緒に燃料にされては大変じゃ~」と床の下辺りに、「筒先」は無いか探してみたが無かったので、その「銃座」だけを貰って持ち帰った。

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それから一、二年後、隣の森並 登さん(祖父ちゃんの弟)宅の二階へ将棋を指しに行っていたところ、二階の押入れに、見覚えのあるあの「火縄銃の砲身」が転がっているのを発見したのです。
 「ああぁ、あの時の火縄銃の砲身がここにある・・・あの時、登さんが貰って帰っていたんじゃ~」と納得した瞬間でした。
 間違いなく、見覚えの有るあの砲筒でした。

 あの「火縄銃の銃座」だけは今、私の手元にあります・・・それがこの写真です。

 祖父ちゃん宅が改築のとき「粗末には出来ない、大切な物じゃ・・・」と、この「銃尻」と、祖父ちゃんの父親、森並龍三が使用していた裃(かみしも)の端切れ、龍三自筆の銘の入った餅を収納する「もろぶた」と「江戸期古書・・数冊」を、持ち帰っておいたものだ。
 ところが家紋を見ると「まんじ」紋、徳島 蜂須賀家の家紋ではないか・・・
 「蜂須賀家から拝受した裃と袴」として大切に保管していたものと思われるのです。

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     素性の証明として、流浪の時から、大事に持ってきた物でしょう・・・
 ・・・森並 龍三の裃と袴

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            明治時代に写し、一枚残された森並龍三の像

●IMG昭和18年森並マツ他
          森並家親戚関連一同   (昭和18年)


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      ↑ 森並龍三銘の入った「餅を収納する、もろぶた」

        年末、年始の家族の労務が、染み付いている道具です。


 6年生頃に聞いた、祖父ちゃんからの話によると・・・  

「父親、森並 龍三は、阿波藩の家臣で、明治維新による家禄奉還、秩禄処理などの影響を受け、流浪の末に内子へたどり着いてのぅ、内子でマツをめとり煙草屋(刻み煙草)を営んだのじゃ・・・。祖父ちゃんが子供の頃聞いた話では、内子の町なかは高橋家、芳我家、曽根家、宇都宮家(庄屋)、浅野家、マツの実家の井上家など12軒しかなかったそうじゃ。今も残る高橋龍太郎さんとこは、ああ見えても120年(当時)経っとる家ぞ。八日市、中町、郷の谷、駄場、廿日市を通る道が街道筋じゃった。そこで忠兵衛、利兵衛、ひで、登、薫、喜兵衛の6人の子を育てたのじゃ~。発句(俳句)を詠むのが好きで、裏の家の屏風の下張りの発句は、全部龍三さんの作品じゃぁ」と言っていたことがあります。

 その頃、屏風の破れた穴から、下張りがあちこち、むき出しになっていたのです。 

  当時、読める筈も無い、筆書き草書の俳句がびっしり書き込まれておりました。

 
  如何に大事な「銃尻」であっても、銃尻だけでは何の役にもなりません。
 勿論「火縄銃」は砲身と銃座とが一体でなければ、史実の資料にもなりません。
 熟慮の末・・・砲身と銃座共が一体として保管されるべき物なので、この度、登さん宅の「砲身」の許へ、事情をお話した上で「銃座」を嫁に出す決意を致した次第です。
 本日付で、宅配、発送手配いたしました。

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発送先・森並 登さんの孫・隆幸さんから、後日、お礼状と写真が届きました。
 写真には、送付した「銃座」にあの「砲筒」が据えられております。【棒筒火縄銃】ですね。
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 砲筒は少々磨かれておりますが、これが本来の姿なのです。
 私が60数年前に、井上のおっちゃんとこで見た、ずっしりと重い鉄砲そのものの姿です。




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