泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2011年02月

 父母が残してくれた写真の中で、永い間【撮影場所不明】の集合写真が2枚有りました。
 私が知らない小母さんに抱かれた、1歳過ぎの写真です。(○印)

 父親、泰山はこの頃、大瀬村駐在所から天神村駐在所(現在、愛媛県喜多郡内子町)へ転勤になり、昭和14年春に、次男の俊光が天神村駐在所で生まれております。
出産前後のお手伝いに、近所の懇意な方に子守を、お願いしていたのでしょう。
私の姿から、場所は大瀬だろうか?天神だろうか?永年疑問に思っておりました。

 昭和47~8年頃でしょうか・・内子町で手広く商売をしていた家内の父親に写真を見てもらったところ「はっきりは判らんが、天神の香林寺さんじゃないじゃろかぁ~、そがいな感じじゃ~」ということでした。

◎香林寺428bf6
          後列右の和服姿が、天神村・香林寺の先代ご住職・・

 閑散とした「天神村」の筈なのに、「産めよ増やせよ・・・」の時代のこと、ぞろぞろと何と子供の多いことか・・・恐らく学校へ入学する前の幼児を集めての農繁期託児所だったのでしょう。
この誰もが、しっかりした凛々しい、いい顔をしているのが驚きですね。

小学生時代に内子で↓印のお二人は拝見した記憶はあるのですが、○印が私で、私を抱いてくれている人も判明していません。
ただ、昭和13年に写した写真に「その人らしい親子の写真」が残っているのです。
大瀬村で写したかも知れないと思っていた、「私を抱いた産婆さんらしき人と、ご近所の親子さん」の写真の人が似ているので、同一人物なら、これも天神村での写真だと思います。


◎於ける天神昭和12年暮
(天神村)昭和13年、写された時から既に70年余り・二世代の時代が過ぎています


在阪の天神出身の同窓生、数人に写真を見てもらいましたが、誰一人思い当たる人が居ないとの事でした。
 今更、70年前の子供らの顔を見て、顔見知りは居ませんか・・?とは、無理難題な話でしょうね。
 写っている子供さんが、全員73歳以上になっておられる年代なのです。

 昭和50年頃だったでしょうか、「天神の香林寺を確認するだけしておこう・・・」と門前まで行って、写された写真を思い出しながら、同じ角度で写した写真が次の写真でした。
駐在所の在った場所を確認したかったのですが、周辺に人っ子一人居なくて確認出来ませんでした。

写真を並べて見て、初めて「同一場所だ!」と実感した次第です。
当時は、私も現役多忙中の真っ最中、ネットもブログも有る筈もなく、そのまま永年放置する結果となってしまいました。

◎香林寺50b91
                 昭和50年頃の天神村・香林寺(内子町平岡)

◎香林寺6
               現在の内子町平岡・・香林寺石段 
         (樹木は伐採され、古刹の風貌の乏しいお寺になりました)


イメージ 4
       当時、小田川を挟んで左が五十崎町、右が天神村


 その後「天神村巡査駐在所」の所在地を、天神出身の高校同級生「タァちゃん」にそれとなく問い合せてみましたところ「父が村長をしていた時、駐在所で写した写真が残っとったのよ、この駐在さんはお父さんじゃないですか?」と、この写真を持ってきてくれました。

 駐在さんこそ違いますが、正しく駐在所の表記が在り、場所は駐在所に間違い有りません、正にココです!
◎天神村派出所
       昭和17年頃の藤岡基莀村長(前列左)を交えての駐在さんと青年団らしい・・
               正面に「天神村巡査駐在所」とある。


 この写真を見て、以前に調査した付近に残っていた、受付窓口のある古い医院のような建物を思い出し、平成25年に再訪問しましたら、建物はそのまま残存しておりました。
 それが、正にこの建物です・・・感動しつつ写して参りました。
◎_1371
                  旧、天神村巡査派出所 (2013年)


イメージ 6
         その後、天神村巡査派出所はこの建物に移ったらしい・・・


●第2話 「川端の宴会場」の頃の話。

●第74話の②●大瀬村から「母子共に元気・・」のはがき・・




保存保存保存保存保存

 鴨緑丸(7,363総トン)は昭和19年11月25日、ヒ83船団10隻で門司発、駆逐艦・神風、夕月など8隻に護衛された船団には特設空母・海鷹(元大阪商船:あるぜんちな丸)も加わっていました。
 30日に高雄に着いた船団はここで二手に別れ、鴨緑丸など輸送船4隻には満州駐屯の第10、第23師団の歩兵各1個連隊が分乗、船団は高速で迂回航行をしながら、マニラに12月11日無事到着して部隊を揚陸しました。

イメージ 1
             鴨緑丸

(((4e93

鴨緑丸


 その後、鴨緑丸のみが単独帰還命令を受けたが、当時は特攻機が連日出撃する極度に緊迫化した状況下にあり、本船が最後の引揚船ということで、多数の在留邦人が殺到しました。引揚邦人、遭難船員、捕虜(約1600名)など3500余名を乗せて、12月13日18時10分マニラ岸壁を出航したが、その日は港外錨地に仮泊しました。翌日4時40分抜錨、駆逐艦・桃、第60号駆潜艇に護衛されて北上、高雄に向かいました。
 この頃、本船は海軍砲1門、7センチ高射砲2門、25ミリと13ミリ機関砲各6基という重武装が施されていました。
 出航4時間後に米第38機動部隊艦載機(TBF雷撃機)が飛来、その猛襲が15日まで継続、TBFは6機乃至13機編隊で銃爆撃を繰返したが、14日は11波で延べ118機、15日は12波延べ170機が来襲しました。
 鴨緑丸がナポ岬南方4~5マイルに差し掛かったとき敵機が猛然と来襲、陸軍船砲隊と海軍警戒隊は直ちに15門の銃砲で火蓋を切り、敵機が横に並んで機銃掃射しながら上空を通過すると、銃砲隊員はバタバタと斃れたが、すぐ別の隊員が代わって銃座に付き、次の敵掃射で隊員が撃たれると、また別の隊員が代わって射撃するという壮絶なシーンが終日続きました。


(((e8d
昭和19年12月15日、沈没前に戦う「鴨緑丸」船舶砲兵



 この間、矢嶋幹三船長は巧妙な操作で避航したが、前田俊事務員によれば、船内の雰囲気は冷静で、甲板員や手の空いた者は警戒隊員への弾薬補給に駆け回っていた由で、また、須谷千代松司厨員は捕虜護衛で乗船中の高砂義勇隊員(台湾出身兵)たちが、弾雨の下で勇敢に行動している姿に感銘を受けた、と語っています。

 以上における交戦で鴨緑丸は敵機13機を撃墜、6機を撃破する大戦果を挙げたが、爆弾は避けられず、計7回もの被弾で火災が発生、乗組員、護衛兵あるいは捕虜までが一致協力して消火する中、浸水は徐々に増しました。

 また、マニラでの補炭時、石炭庫内で繰り炭の暇が無いまま出航したため、船は最初から左舷に傾いていたが、これに浸水が加わり傾斜が15度になったため、最寄のオロンガポ港沖に投錨、夜間に乗じ翌15日夜明けまでに婦女子や負傷者などの陸揚げに成功した。
このとき、小西金積3等機関士や小野安治機関員は飽くまで一時離船のつもりであったため、ボイラは埋め火にして離船したが、陸上から乗組員たちが見守る中、かつての大連航路の花形客船は敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、遂に12月15日16時15分猛火に包まれながら遂に沈没した。



(((0ef1
海岸にたどり着き 擱座炎上する本船を振り返る乗組員たち

1944 December 14  Oryoku Maru beached
擱座した「鴨緑丸」は、敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、
猛火に包まれながら遂に沈没した。(米軍撮影資料)
1944・12鴨緑丸2

1944・12鴨緑丸1


(((0d7144a
  日本郵船「富士丸」を救助する「鴨緑丸」乗組員


イメージ 6






このページのトップヘ