泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年03月

母が残していた、古い今治周辺の絵葉書です・・・
 
                          ①大浜灯台より大島を望む  
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                       ②菅公(菅原道実)衣干岩                                                   イメージ 2
 
                   
                          ③桜花爛漫の吹揚公園
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母が残していた、古い今治市周辺の絵葉書です・・・
 
                          ①商店街本町通り 
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                           ②波止浜塩田の全景 
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                        ③小島公園北部砲台 (昭和15年頃)
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                             ④小島公園 北部砲台 (昭和10年頃)
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 実にたどたどしい文字、母・芳子が小学生時代に集めていた絵葉書が、内子町に残っていました。
 
 大正時代の・・・今では貴重なものと思います。
 「松山歩兵第22連隊、凱旋式」(シベリア出兵の)と、其の「感状」及び「広島第5師団、過激派軍討伐絵葉書」(日本陸軍のシベリア出兵)と当時の「今治市周辺絵葉書」です。

 残存しているかどうか・・・貴重なデータと思いまして、皆様に拝見して戴きたく、順次掲載させて戴きたいと思います。

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右は・・「広島第5師団」の絵葉書袋の裏面で、○内に・・内子町 森並芳子とある。つい昨日書いたような、鉛筆の筆圧がそのまま残っています。

 表面は別途予定。

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       松山歩兵第22連隊、凱旋式 (シベリア派兵からの凱旋だろう)

後方は城山と思うが、場所は堀の内練兵場か?城北練兵場か?は、松山の方なら解かると思います。
山容から判断すれば、堀の内だと思われます。

銃弾に射ち抜かれた旭日連隊旗の様は、「風に閃く連隊旗、旗は飛び来る弾丸に、破るる程こそ、誉なれ・・・」そのものです。

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    整備される前の、堀の内練兵場(元)の同じ場所


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【感状】 
(感謝状)

野中支隊 歩兵第22連隊 第3大隊(第9中隊
)、同・第1第2中隊、同・機関銃1小隊、同・特殊砲隊
 
大正8年12月末、兵力約1500乃至2000を算する過軍(過激派軍)は「ムホルシビール」「マレータ」「クナレ」の各地に集団して所在、我が軍及び交通線を脅威するのみならず「トルバカタイ」以西「ウェルフネウジンスク」以東に於ける鉄道線路の被害殊に甚しきを以って、野中支隊に之が掃蕩を命ぜられ、大正9年1月2日支隊は「ペトロスキー」を発し各地に転戦すること十有五日、此の間「ニコリスコエ」に約400の敵を撃破したるを始めとし「ハラシビール」「ヒローク」河谷等に於いて、常に優勢にして頑強なる敵を掃蕩し、殊に1月12日早暁「ノーウォザルダミンスコエ」付近の戦闘の如きは、約3000の過軍の包囲攻撃を受け激戦数時間に昇りたるも、将卒克く堅忍持久遂に天明と共に猛烈なる逆襲を敢行して敵を潰乱に陥らしめ、敵の戦場に遺棄したる死体約530を算し真に懺滅的打撃を与えたるものと謂うべし、如此にして全討伐期間敵と交戦すること前後5回、敵の屍すこと実に730、我が損害は頗る僅少にして、而も連日連夜殆んど不眠不休零点下50度の厳寒と戦い一百余里に昇る積雪深き広野山嶺を踏破し、幾多の困苦欠乏に耐え、上下一致身命を擲って勇戦奮闘し、終始光輝ある戦勝を得て過軍を震骸せしめたるは、一に支隊長の適切にして周密なる画策と部下将卒の忠勇義烈なる赤誠の発露にして、其の功績洵に偉大成るものと認む、依って茲に感状を附与す。 (句読点なしの一文である)
  
大正9年2月20日
浦潮(ウラジオストック)派遣軍司令官 陸軍大将 (従三位、勲一等、功三級)    大井 成元

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大井 成元 (おおい しげもと)
1863年 山口県出身。大井又平の三男として生まれる。

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         城山から見た松山歩兵第22連隊兵営
         城山の西麓にあり旧二の丸三の丸の城址です。
         兵営の周囲には城壕沿いに老松の影も静かに・・・




 20歳に成ると同時、昭和16年12月に徴兵されて行った勇雄さん(母の弟)は、5月にはフィリピンの最前線に派遣されていました。
 5ケ月で、ニワカ訓練のニワカ兵士に仕上げられ、前線に連れて行かれたのでしょう。
 
 如何に軍部があたふたと準備も無しに、その場しのぎの作戦をしていたかが、ミエミエなのです。
 「真珠湾攻撃して、タッタ半年でコレか??・・・」と、東条内閣と軍部のお粗末さに呆れてしまいます。
 日本軍の強さなんて、タダの自己満足・・タダの強がり・・でしか、なかったのか?・・・と考えさせられます。
 
 勇雄さんが勤務していた愛媛県長浜町「岸本本店」の、取引先から戦地に送られた激励の葉書が物語っています。
 これには、戦争が始まったばかりの、昭和17年では有りながら「売る商品が皆無で、遊んでいる・・・」という状況が書かれています。
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【内容】比島(フィリピン)派遣軍 渡夏9852部隊 柳瀬隊本部 森並 勇雄
 
拝啓、貴君 益々御勇健の由 奉賀候。
其の後は、ご無音且つ失礼し居り候。
御手紙に依れば、比島へ御勇軍との事。
御地は内地の真夏の気候で、中々あついでショー。
此の上は、御身体大切、軍務にシタガイ、精々御上昇の程、お祈り申し上げます。
当地方、ご存知の通り、販売致す品物・・皆無にて、ただ遊び居り候。
小生もご当地へ参りたく思い居り候。
好時期ご奉公願い度候。延引きお礼まで・・・
 
昭和17年5月25日
伊予国 喜多郡 長浜港
砂糖、麦粉、麺類、荒物卸商   水沼梅夫商店
 
 
昭和12年夏に、この森並勇雄さんが長浜から、その父の忠兵衛に宛てた暑中見舞いが残っています。
 勇雄さんは、昭和12年は15歳ですから、この毛筆の達筆さに私は目を奪われ、残しておきました。
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【参考】
第69話の① 成人すると・・すぐさま・・
第69話の③ 成人すると・・すぐさま・・
 
 
 

 それにしても、親父泰山が18年春に満州からラバウルへ転戦し、そこでマラリア感染のため約半年で、この地を去らねばならなくなったラバウルとは、どんな処だったのでしょう。
 
第33話の①~②参照・・「善通寺陸軍病院の父」

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965678.html 

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965679.html
第33話の③ 「南方からのはがき・・」参照

33話の⑦●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966281.html  

33話の⑧●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html
 
 戦時中は「ラバウル小唄」(さらばラバウルよ、又来るまでは・・)とか「ラバウル航空隊」(銀翼連ねて南の前線、揺るがぬ守りに海鷲たちが・・)などの歌がよく歌われていまして、「日本軍の南方の守りの要」の様に言われていましたからよく聞く地名でしたが、戦後は殆んど耳にすることがありません。
 
 細切れの情報をつなぎ合わせてみましたら・・・
 父親、泰山は昭和18年11月に、マラリア感染のため病院船で此処を退去していますが、12月15日には同島南部のマーカス岬に米軍が上陸し、この島も戦闘モードになっています。
 あの漫画家の「水木しげる氏」も、このラバウルで最後まで戦い、片腕を無くしたのですから、どうもその作品にもラバウルの軍隊生活が描かれているということです。
 遅かれ早かれ、退去は止むを得なかったのでしょう。
 
 この島は、パプアニューギニア系の人々が住む南海の楽園です。
 ラバウルの市街は、北側に海が面していると思っていましたが、市街の南に海が面していますね。
 市街の東側にラバウル飛行場(現、ラバウル空港)があり、その東に活火山があります。
 ラバウルの町のすぐ傍ですが、活火山のダブルブル山の火口があり、常に活動を続けている火山島です。
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            前線基地・・ラバウル

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  前線基地「ラバウル風景」 ダブルブル火山    小堀 安雄 画
  
                                               ラバウル市街から東方を望む        ダブルブル火山
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当時のラバウル飛行場
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当時上空より・・市街とダブルブル火山      ラバウルの夜明け
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((rabaul_ラバウル空撮
 ガダルカナルを前にして、ラバウルは日本軍の最前線基地でした


Banara Village
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●下記より、参考の為引用しました・・
 

 
 そして18年の夏にかけて、泰山の所属する【満州岩6418部隊】は牡丹江→釜山→佐伯(大分)→ラバウル(ニューブリテン島)へと物資を補給されながら、敵襲も受けず20日ほどかけて移動しております。(後記「満州➔ラバウルへ移動したルート」参照)
 ラバウルは、日本軍の最前線であったガダルカナル島(ソロモン諸島)のすぐ後方の最前線の基地ですから、日米決戦の補給戦力として、相当数の兵力を満州方面から集結させていったのでしょう。
 
 そのラバウルから、登志姉ちゃん(母の妹)に出した葉書が1枚だけ残っております。
これには日付が入っており、昭和18年10月16日となっております。

 勿論、このはがきだけでは「南方へ移動した・・」ことは判るが、果たして何処か?
は、判明しません。
 ただ、松山の祖母浦子が「ニューギニア」だと、私に教えてくれていたのです。

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【内容】 愛媛県喜多郡内子町 森並登志子様 昭和18年10月16日
 
拝啓、先日お便り有難うございました。
皆元気との事 何よりです。
私も相変わらず元気ですから 御安心下さい。
松山も皆元気なとの事ですが、安心しております。
隣の菓子屋の叔父さん(登さん)も元気ですか。
よろしく伝へて下さい。
皆によろしく。       
 
南海派遣 剛6418部隊 尾方隊 今井隊  福島泰山
 
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          バターン戦線猛砲撃     高沢圭一 筆
 この絵葉書の絵は、フィリピンのバターン半島戦線の絵ですから、当時は太平洋全域で過酷な戦いが繰り広げられていたものと思います。

 10月16日に葉書を書いたとすれば、病院船ブエノスアイレス丸が撃沈された11月27日の1ケ月前です。
 ラバウルに転戦して、間もなしに蚊に刺されマラリアを発症したものと考えられます。
 恐らく、泰山はマラリアの高熱に晒されながら、熱の収まりを待って、この葉書を書いたのではないでしょうか。
 当時はマラリアの特効薬は、キニーネだけだったと思いますが、軍隊は南方戦線用に調達はしていただろうと思います。

 
第33話の①~②参照・・「善通寺陸軍病院の父」

第33話の➀ 善通寺陸軍病院の父 http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965678.html 

第33話の⓶ 善通寺陸軍病院の父 http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965679.html 

第33話の⓷ (参考)病院船「ぶえのすあいれす丸」の沈没・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965685.html

第33話の⑤ ラバウルって、こんなトコだった・・!

第33話の⑥ 父の部隊が城子溝(満州)からラバウルへ移動したルート・・


33話の⑦●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966281.html  

33話の⑧●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html  

33話の・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966013.html  

33話の・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966024.html  




 祖父ちゃんが芳子の病気を、泰山に報告した前後に、登志姉ちゃん(母の妹・高等女学校生)からも慰問便を送っていたのでしょう。
 返事が泰山より届いています。
 の葉書には、勇雄さん(母の弟)が成人して【召集の赤紙が来て、小倉の歩兵連隊へ入隊】した事が書かれています。
 勇雄さんは学校を出てからこの方、伊予長浜町の岸本本店に勤務中でしたが、成人と同時に召集令状が来たのでしょう。
 
 勇雄さんの出征風景が、全く記憶に残っていないので、恐らく【第25話で芳子の看病の邪魔にならぬよう、孝芳と僕を浦子が松山へ連れ帰った】後のことと思う。
 当時の若者は、成人するとすぐさま「待ってました!」とばかり、軍隊に召し上げられて行ったのでしょう。

母の弟・・森並勇雄さん(21歳)
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【内容】 愛媛県喜多郡 内子町 森並登志子様  
昭和16年12月
 
登志子さん、寒くなって来ましたが、お父さんやお母さんや、お祖母さん(マツ)は元気ですか。
勇雄さんが小倉(歩兵連隊)へ行ったので、淋しくなりましたね。
姉さんが病気なので、泰弘たちのお守りで、忙しい事と思いますが、泣かさん様に遊ばしてください。
私も元気ですから安心してください。
寒くなって来ましたから、風邪を引かぬ様にしてください。 
満州牡丹江省、東寧県城子溝、岩6418部隊鈴木隊 福島泰山
 
 
 この後、母の芳子が4月20日に逝去(第26話参照→ http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8722503.html)したのですが、この前後の泰山から届いた葉書は残っていなかったですから、芳子の旅立ちに纏めて持って行かせたものと思います。 

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この頃の登志姉ちゃんと私(4歳)

併せて、半年後泰山から登志姉ちゃん宛てに下の葉書が届いております。
登志姉ちゃんから、戦死の知らせを伝えた、その返事でしょう。

 勇雄さん(母の弟)がルソン島で戦死していたのです。
故郷から出征して、たった6ヶ月後のことです。

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【内容】 愛媛県喜多郡 内子町 森並登志子様  昭和17年6月
 
先日は御便り有難う。
勇雄さんが戦死せられて、さぞ力落としの事と思います。
然し、之も国家の為致し方ない事ですから、
どうか落胆する事なく、元気でやってください。
私達が及ばずながら、力となりますから、心配せぬ様にして下さい。
お母さんやお祖母さんによろしく。
では又。   
満州牡丹江省、東寧県城子溝 岩6418部隊鈴木隊 福島泰山
 
(検閲に引っかかるので、これ以上の感情表現は出来なかったのでしょう)
 
 勇雄さんは衛生兵として、ルソン島中部へ従軍していた。
 祖父ちゃんが話してくれたのは
 「敵弾を受け、負傷している兵士を介護している時、敵の銃弾が頭部に命中して戦死したんじゃ・・・と、出海村出身の戦友が遺骨を届けに来てくれたとき報告してくれたんじゃ。火葬も遺骨拾いも全部立ち会ってくれたので勇雄の遺骨に間違いない、と言うとった・・・」とのことだった。
 当時、戦地から帰ってくる白木の遺骨箱には、石ころや木片が入っていたという話があったので、祖父ちゃんはその事を心配していたのでしょう。
 
 一番に期待を寄せていた、勇雄さんのことを話す時は、いつも深い深いため息が、つい出てしまう忠兵衛さんでした。
 
【参考】
第69話の② 成人すると・・すぐさま徴兵された叔父・・
 
第69話の③ 成人すると・・すぐさま徴兵された叔父・・
 
 

 泰山から芳子への便りにも拘わらず、妻から返事が来ない泰山の苛立ちを、理解したのでしょう。
 戦地で余分な心配をさせてはならないと、病状を報告出来ないでいた忠兵衛は、悩んだあげく、いたたまれず「芳子の病状」を書いて、泰山に報告したのだろうと思います
 
 「軍事郵便」は日付が何処にもないが、これは1月18日に泰山からの返事を、忠兵衛のもとに出しておりますね。

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 そして、並行して芳子宛に便りが届いておりますが、これは見舞い状の感じですので、別途「子供らの為にも、養生して早く元気になってくれ!・・頼む!」との激励の便りが来ていたものと思われます。
 その書状は、残念ながら残っておりません。

  恐らく、その便りは芳子が懐へ入れて、浄土へ持参して行ったのでしょう。
 
 
 
 
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【内容】 内子町 森並忠兵衛様 昭和17年1月
 
拝啓、先日お手紙有難うございました。
芳子の病気に付いては、一方ならぬ御苦労、御心痛をお掛けしまして本当に相済みません。
お便りによると、病状も普通の病気と違い、さぞ看護に難儀をせられた事、お察し申し上げます。
病状に付いて、当方に於いても、戦友達にも尋ねたのですが、やはり産後あまり心配した結果、血の道を起こしたのではないかと云ふ人もあります。
血の道には「猿の頭の黒焼シヲカラ」が好いと云ふ話ですから、友人に頼んで内子の方へ送って貰ふ様にしておりますから、それを 味噌汁にして飲ましてください、お願いします。
友人に頼んで送って貰ふ様にしておりますから・・・ 

牡丹江省 東寧県城子溝 岩6418部隊 鈴木隊 福島 泰山


 
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【内容】 内子町森並様方 福島芳子殿 
昭和17年3月
 
其の後 容態は如何ですか。
寒くなりましたが、私は元気ですから安心して下さい。
子供達は相変わらず元気で、面白く遊んで居る事でせう。
当地も先日、慰問演芸団が来まして、漫才、流行歌等をやりましたが
中々、面白く大人気でした。
何事にもくよくよせずと、充分養生をして下さい。 お願いです。
又、変わった事があればお知らせします。
 
         満州 牡丹江省東寧県城子溝 岩6418部隊  福島 泰山
 

 
 やはりこの頃に孫たちと、実家で養生している母の病気を心配して、松山の姑の浦子が祖父ちゃん宛に葉書を出しております。

 内子の階段箪笥の引き出しに、残っていた古い書状を整理していた時、せめて葉書だけでも・・・と10数枚の葉書だけ残しておいたものなのです。
 浦子の写真1枚残っていないのですから、せめて葉書だけでも・・・という気持ちがあったと思うのです。

 健康保険等のない当時のこと、父の勤務していた警察署で、母の治療費等の処遇について、忠兵衛からの相談に、回答を得ていた内容を連絡しています。  (第25話の頃でしょう)
 浦子は書き損じた葉書に墨を塗って、その黒い葉書の上に鉛筆書きの照りを利用して、時々葉書を書いていたが、タキノ祖母ちゃんの言うには「警察にスパイ扱いで睨まれるから、注意して欲しい」と郵便局員に注意を受けたとのことだった。 
 その黒い葉書も整理の時、数枚は見ましたが、残念ながら残していません。
 
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【内容】  内子町 森並忠兵衛様   昭和17年1月12日
 
久しく御不音に打ちすぎましたが、其の後芳子さんの病気は如何ですか。
去年の暮れ、書類をご送付致しましたが、早速役場へ持ち行かれたことと思ひます。
其の後、医師、薬代は無料でしょ。
方面員にお願いして、充分にしてありますから、また今治のケイサツへ頼まいでも(頼まなくても)、本人が内子で病気をしているから、当地でなくてはイカンと松山のケイサツに云はれましたから、今迄金子を払った分は、内子ケイサツへ行って書き物をもらったら、半金はケイサツから出してくれますから、行って頼みなさい。   
             松山市琢町   福島浦子
 
 
 
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【内容】  内子町 森並忠兵衛様  昭和17年2月23日
 
先日、御来松の節は実に失礼いたしました。
其の後、芳子さんは如何ですか、少しは良い方ですか。
又、人に話してみましたら、熱が無ければ、その節へヤイトをすえてみるか、引き付ける所をひねるかして見た方が良い。
あまり医師のチュウシャばかりしよると中毒になるから
其の引きつける所を、力のある人が少しひねってあげる方が良いとの事。
いくらチュウシャしてもだめですと云ふて居ります。
松山へ来松するにも身が弱って居るとの事であれば
もしマヒでも起きてはならぬと、心配して居ります。
右の様にしてみてください。
                松山市琢町  福島浦子
 
 
 
当時、内子町にも著名な医師が4軒ほどあったので、芳子の治療に、祖父ちゃんも祖母ちゃんも、あらゆる手を尽くしていたと思いますが、中々治癒の方向へ向かなかったのでしょう。
 
 
 

第22話~第25話の頃と思います。
(25話 鯉の血・・・参照)↓ 
 

父から母に便りをすれど・・・母からの便りはまったく来ない。
昭和17年の正月前後のはがきには、時が経つに連れてイラダチが垣間見えています。
 
この間に、22話で僕の描いた「汽車の絵」も送られたのでしょう。
芳子の病気を知らせて、戦地で心配させることのないように・・・との配慮が、意としない人からの慰問便は届くが、愛妻からの便りが全く来ないという、苛立ちとなっているのでしょう。
 
中身は、例によって・・ありきたり・・の内容なのですが・・
妻、芳子からの便りが来ないことが「一体何があったのか?・・・」と苛立ちとなって言葉の端々に表れております。
 
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【内容】 内子町 森並様方 福島芳子殿  16年12月
 
大分寒くなって来ましたが皆元気ですか。
私も元気ですから安心して下さい。
お正月が近づいたので、忙しい事と思います。
先日、今治署の方から慰問文を戴きましたから署長に礼状をお願いします。
京都の政子さん(妹)及び松山の森岡の子供達にも、また、
栗田さんからは、慰問袋を戴きましたから、天神村の方へ礼状をお願いします。
子供達は元気ですか。
本日は失礼します。 
 
満州国牡丹江省東寧県 城子江軍事郵便処気付
岩6418部隊 鈴木隊   福島 泰山
 
 
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これは満州のだんごです・・・
と父の説明文。


「山椿子(タンホ-ル)売りと酒屋の看板」












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【内容】 内子町 森並様方 
福島芳子殿 昭和17年正月
 
拝啓、寒くなって来ましたが、皆元気ですか。
私も相変わらず元気です。
始めての満州のお正月も、中々寒いです。
先日、写真送りましたが、届きましたか。
届いたら何とか返事を下さい。
子供達は元気ですか。
充分に気をつけて下さい。
先日、隣の森並から葉書をもらいましたから、よろしく。
又、岩城村の高井助三郎さんから、慰問袋を送って貰いましたから、礼状をお願いする。
お父さん、お母さんによろしく。 
 
牡丹江省 東寧県 城子溝 岩6418部隊鈴木隊
福島 泰山
 
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 多分、この写真を送ったのでしょう・・・
 父は、この頃32歳でした。
 
 それにしても、文面を見るとあちこちから「慰問袋」を送ってもらっても、直接には礼状を出したのでしょうが、家族からも丁重に礼状を出していたのですね。
 留守家庭では、次々と礼状を書く大仕事が有ったのだと思います。
 
 多分、病床の母に代わって母の名を使って、代わりの者が礼状を出していたものと思われます。
 



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【内容】 内子町 森並様方 福島芳子殿  昭和17年1月
 
大分寒くなって来ましたが、皆変わりありませんか。
私も元気ですから安心して下さい。
子供達も元気なとの事、先日父上の手紙で安心しております。
先日、長浜の岸本から、慰問袋を送って貰いましたから、礼状をお願いします。
お正月は如何ですか、面白く過ごせましたか。
先日、写真を送りましたが着きましたか。
まあ、暇がありましたら時々便りを下さい。
お父さんやお母さんによろしく。   
 
牡丹江省 東寧県 城子溝 岩6418部隊鈴木隊
福島 泰山
 



 第19話で父が出征したあと、あまり程遠くない10月後半に、父から母に宛てた軍事郵便です。
 軍事郵便は秘密漏洩防止の検閲のため封筒不可、すべて葉書だったのでしょう。
 
 だから、どれを読んでも、あり来たりの内容しか書いてありません。
 
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【内容】 内子町森並様方   福島芳子殿
 
拝啓、本日手紙受け取りました。
子供達も元気との事。
又、松山祭りには内子のお母さんや登志子さん(妹)も来ましたか。
子供達も喜んだでせう。
近況の詳細を知らせとの事ですが,何分詳細な事は何も知らせるわけにはゆきません。
元気であれば安心してください。
慰問袋は約二週間位かかりますから、その心づもりで
送ってください。
今度は缶詰や栗や羊羹等を充分に送ってください。
長浜の岸本の叔父さん(忠兵衛の弟)方から、親切な手紙を戴いたので、早速煙草を送って貰ふ様に、葉書を先日出しておいたのですが、勇雄さん(母の弟、長浜の岸本勤務中)が来た時に送って貰ふ様に頼んで下さい。
お父さんや、皆元気ですか、よろしく。
又、隣の叔父さん(忠兵衛の弟、登さん)にもよろしく。

(昭和16年10月下旬頃)

満州国 牡丹江省東寧県城子溝 軍事郵便処気付
満州岩6418部隊 鈴木隊     福島泰山
 

イメージ 2 今、読み返しても「軍人は遠慮もなしに、贅沢ばかり勝手なことを書き並べて・・・」と感じますが、遠い異郷の地で、補給物資も限られた状況での軍隊生活が垣間見えてきます。

 一方、留守家庭においても「何をさて置いても、国のために頑張っている、兵隊さん最優先」の風潮があったので、兵隊さんのワガママは我侭として、当たり前の事としてまかり通っていたのでしょう。
 
 この後、11月頃から、母芳子が病床に就いたのだろうと思いますが、父から母に便りをすれど、母からの返事が来ない・・・というジレンマが募ってくる文面になってゆきます。
 勿論、母に代わって周囲のものが、入れ替わり立ち代り返事を書いたのでしょうが、妻からの手紙が来なければ当然「何故だ??」と感じて苛立った文面になってゆくのです。
 
 
 


岩城島へ移り住んで、落ち着いた頃に、母が実家に宛てたはがきです。
 
イメージ 1【内容】 喜多郡内子町 森並忠兵衛様
 
先日はお手紙有難う御座居ました。
皆様お元気の由、何よりです。
私方も皆元気でいます。
政子さん(妹)も 長い間遊んで上京した御様子其の後はお淋しいでせう。
先日のお手紙の件、主人も意外の様子で、あの二枚の軸画はあるべきだがと申していました。
早速、内子署の熊さんに電話で二枚の軸画はある筈だから持ち帰って貰ふ様、依頼しておいたそうですから、其の内、何とか話があるでせう。 
また後便にて・・
この写真の中頃に、大きな屋根にインキで○印のある近所になります。
この写真を隣(忠兵衛の弟、登さん)へも見せて上げて下さい。
こんな処だと云ふ事を知らせ度い。

岩城村   芳子。
昭和15年6月15日
 
 




そういえば、戦後も大分経ってからですが、忠兵衛祖父ちゃんが話していました。
「ウチに狩野一派の人が描いた、立派な花鳥図の軸が二振り有ったんじゃけんど、泰山さんが鑑定してもらうけん・・・云うて、持って行ったまま返してもろてないんじゃ」
と云っていたが、その件の確認の連絡が来た返事ではないかと思う。
 
 警察官宿舎の隣に居た、同僚の熊さんは泰山より先に転勤されたと思っていたが、泰山の方が先に
岩城島駐在所へ転出したようですね。
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                   高台から南を望んだ・・・・・「岩城村風景」
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   今の岩城港風景

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