鴨緑丸(7,363総トン)は昭和19年11月25日、ヒ83船団10隻で門司発、駆逐艦・神風、夕月など8隻に護衛された船団には特設空母・海鷹(元大阪商船:あるぜんちな丸)も加わっていました。
 30日に高雄に着いた船団はここで二手に別れ、鴨緑丸など輸送船4隻には満州駐屯の第10、第23師団の歩兵各1個連隊が分乗、船団は高速で迂回航行をしながら、マニラに12月11日無事到着して部隊を揚陸しました。

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             鴨緑丸

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鴨緑丸


 その後、鴨緑丸のみが単独帰還命令を受けたが、当時は特攻機が連日出撃する極度に緊迫化した状況下にあり、本船が最後の引揚船ということで、多数の在留邦人が殺到しました。引揚邦人、遭難船員、捕虜(約1600名)など3500余名を乗せて、12月13日18時10分マニラ岸壁を出航したが、その日は港外錨地に仮泊しました。翌日4時40分抜錨、駆逐艦・桃、第60号駆潜艇に護衛されて北上、高雄に向かいました。
 この頃、本船は海軍砲1門、7センチ高射砲2門、25ミリと13ミリ機関砲各6基という重武装が施されていました。
 出航4時間後に米第38機動部隊艦載機(TBF雷撃機)が飛来、その猛襲が15日まで継続、TBFは6機乃至13機編隊で銃爆撃を繰返したが、14日は11波で延べ118機、15日は12波延べ170機が来襲しました。
 鴨緑丸がナポ岬南方4~5マイルに差し掛かったとき敵機が猛然と来襲、陸軍船砲隊と海軍警戒隊は直ちに15門の銃砲で火蓋を切り、敵機が横に並んで機銃掃射しながら上空を通過すると、銃砲隊員はバタバタと斃れたが、すぐ別の隊員が代わって銃座に付き、次の敵掃射で隊員が撃たれると、また別の隊員が代わって射撃するという壮絶なシーンが終日続きました。


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昭和19年12月15日、沈没前に戦う「鴨緑丸」船舶砲兵



 この間、矢嶋幹三船長は巧妙な操作で避航したが、前田俊事務員によれば、船内の雰囲気は冷静で、甲板員や手の空いた者は警戒隊員への弾薬補給に駆け回っていた由で、また、須谷千代松司厨員は捕虜護衛で乗船中の高砂義勇隊員(台湾出身兵)たちが、弾雨の下で勇敢に行動している姿に感銘を受けた、と語っています。

 以上における交戦で鴨緑丸は敵機13機を撃墜、6機を撃破する大戦果を挙げたが、爆弾は避けられず、計7回もの被弾で火災が発生、乗組員、護衛兵あるいは捕虜までが一致協力して消火する中、浸水は徐々に増しました。

 また、マニラでの補炭時、石炭庫内で繰り炭の暇が無いまま出航したため、船は最初から左舷に傾いていたが、これに浸水が加わり傾斜が15度になったため、最寄のオロンガポ港沖に投錨、夜間に乗じ翌15日夜明けまでに婦女子や負傷者などの陸揚げに成功した。
このとき、小西金積3等機関士や小野安治機関員は飽くまで一時離船のつもりであったため、ボイラは埋め火にして離船したが、陸上から乗組員たちが見守る中、かつての大連航路の花形客船は敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、遂に12月15日16時15分猛火に包まれながら遂に沈没した。



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海岸にたどり着き 擱座炎上する本船を振り返る乗組員たち

1944 December 14  Oryoku Maru beached
擱座した「鴨緑丸」は、敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、
猛火に包まれながら遂に沈没した。(米軍撮影資料)
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1944・12鴨緑丸1


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  日本郵船「富士丸」を救助する「鴨緑丸」乗組員


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