実にたどたどしい文字、母・芳子が小学生時代に集めていた絵葉書が、内子町に残っていました。
大正時代の・・・今では貴重なものと思います。
「松山歩兵第22連隊、凱旋式」(シベリア出兵の)と、其の「感状」及び「広島第5師団、過激派軍討伐絵葉書」(日本陸軍のシベリア出兵)と当時の「今治市周辺絵葉書」です。
残存しているかどうか・・・貴重なデータと思いまして、皆様に拝見して戴きたく、順次掲載させて戴きたいと思います。
右は・・「広島第5師団」の絵葉書袋の裏面で、○内に・・内子町 森並芳子とある。つい昨日書いたような、鉛筆の筆圧がそのまま残っています。
表面は別途予定。
松山歩兵第22連隊、凱旋式 (シベリア派兵からの凱旋だろう)
後方は城山と思うが、場所は堀の内練兵場か?城北練兵場か?は、松山の方なら解かると思います。
山容から判断すれば、堀の内だと思われます。
銃弾に射ち抜かれた旭日連隊旗の様は、「風に閃く連隊旗、旗は飛び来る弾丸に、破るる程こそ、誉なれ・・・」そのものです。
整備される前の、堀の内練兵場(元)の同じ場所
【感状】 (感謝状)
野中支隊 歩兵第22連隊 第3大隊(第9中隊缺)、同・第1第2中隊、同・機関銃1小隊、同・特殊砲隊大正8年12月末、兵力約1500乃至2000を算する過軍(過激派軍)は「ムホルシビール」「マレータ」「クナレ」の各地に集団して所在、我が軍及び交通線を脅威するのみならず「トルバカタイ」以西「ウェルフネウジンスク」以東に於ける鉄道線路の被害殊に甚しきを以って、野中支隊に之が掃蕩を命ぜられ、大正9年1月2日支隊は「ペトロスキー」を発し各地に転戦すること十有五日、此の間「ニコリスコエ」に約400の敵を撃破したるを始めとし「ハラシビール」「ヒローク」河谷等に於いて、常に優勢にして頑強なる敵を掃蕩し、殊に1月12日早暁「ノーウォザルダミンスコエ」付近の戦闘の如きは、約3000の過軍の包囲攻撃を受け激戦数時間に昇りたるも、将卒克く堅忍持久遂に天明と共に猛烈なる逆襲を敢行して敵を潰乱に陥らしめ、敵の戦場に遺棄したる死体約530を算し真に懺滅的打撃を与えたるものと謂うべし、如此にして全討伐期間敵と交戦すること前後5回、敵の屍すこと実に730、我が損害は頗る僅少にして、而も連日連夜殆んど不眠不休零点下50度の厳寒と戦い一百余里に昇る積雪深き広野山嶺を踏破し、幾多の困苦欠乏に耐え、上下一致身命を擲って勇戦奮闘し、終始光輝ある戦勝を得て過軍を震骸せしめたるは、一に支隊長の適切にして周密なる画策と部下将卒の忠勇義烈なる赤誠の発露にして、其の功績洵に偉大成るものと認む、依って茲に感状を附与す。 (句読点なしの一文である)大正9年2月20日浦潮(ウラジオストック)派遣軍司令官 陸軍大将 (従三位、勲一等、功三級) 大井 成元
大井 成元 (おおい しげもと)
1863年 山口県出身。大井又平の三男として生まれる。
- 1909年1月 陸軍少将、歩兵第19旅団長。
- 1911年3月 近衛歩兵第2旅団長
- 1912年11月 陸軍大学校長
- 1914年5月 陸軍中将、第8師団長
- 1918年7月 第12師団長、シベリア出兵に従軍。
- 1919年8月 浦塩派遣軍司令官。11月、陸軍大将、勲一等瑞宝章。 1951年7月、薨去。墓所は東京都の多磨霊園
城山から見た松山歩兵第22連隊兵営
城山の西麓にあり旧二の丸三の丸の城址です。
兵営の周囲には城壕沿いに老松の影も静かに・・・
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