私の【大江健三郎に関わるエピソード】
昭和28年春(1953)、私は内子高校へ入学しました。1年1組となり、京大出身の宇都宮正弘先生(通称・ウーさん)が担任となったが、同じクラスに当時未だ無名だった大江健三郎の妹が偶々在籍していたのです。
そういう事もあってか先生は、僕らが名前も顔も知らない三年先輩の大江健三郎を何かにつけて例えに出し「大江さんの兄貴、大江健三郎君は当校へ入学したんじゃが、あんな頭脳明晰な男は、今まで見たことが無いぞ、カミュや太宰治を読んでいて只者じゃない、思考力がずば抜けとった。 彼は一年間在学したんじゃが二年生から松山東校へ転校させたんじゃ、今は東大へ進学を目指しているので、いずれ大成すること間違いなしじゃ」
「当校に居ったのでは大江健三郎のあの才能は伸びんわ、下衆の中ではあれだけの卓越した才能の芽が摘み取られてしまう。 東大を目指すのなら松山東高校へ転校しろと言うてな転校させたんじゃよ」と並み外れた才能を見抜いていた大江の良き理解者でもあり、名立たる大学への合格率の良い松山東高校への転校を先生主導で勧めた様でした。
(低俗な一般人に同調できない気質と内気が禍いして、級友から陰湿な虐めを受けたらしく、二年生から松山東高校へ転校したそうな・・・)
1年1組 宇都宮先生と大江健三郎の妹(前列左端)
入学後1ヶ月ほど経たホームルームの時間に担任の宇都宮先生は「この前言うとった【アルバイト届】を持ってきている人、提出してくれよー」との事で、私はこの3月から高校の月謝稼ぎのため、本町劇場の辻ビラ書きに行き始めたので提出した。 大江と同期の森野長一郎先輩がやっていたバイトを引き継いだのでした。 バイト先と勤務時間、作業内容を書いただけのものだが、担任教諭が情報把握はしておきたいとの主旨のようだ。
先生はざっと目を通しながら「福島君、本町劇場の木戸口の小母ちゃんはな、先生の姉御じゃからな、ビラ書きしに行って映画ばかり見とったらいけんぞ。 真面目にやらんと監視付きみたいなもんじゃからなぁ」とダメ押しの一言がきた。
級友の目の前で、他の生徒への牽制の意味も含めて明からざまにしたのでしょうが、狭い町のこと、そういえば改札の小母ちゃんは宇都宮さんだったな、知らなんだなぁ・・・と納得した次第です。
太平洋戦争の残影㊱ 最前線で硫黄島・沖縄
太平洋戦争の残影㉟ ガダルカナル島など最前線で
太平洋戦争の残影㉞ ラバウル・ブーゲンビル飛行場で
太平洋戦争の残影㉝ 最前線でのスナップ
太平洋戦争の残影㉜ 南方最前線でのスナップ
忘れかけの内子町風景・・⑮ 実業家 高畑 誠一
晩年、神戸にお住いの高畑誠一翁は、昭和50年頃だったか大阪で行われた内子町出身者の「内子会」に老齢を押して参加されたことが有り、私もその時初めての拝顔でした。
明治20(1887)年内子町で生まれる。生家は内子町本町2丁目かなり古い家系で、高畑誠一は14代目に当たる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。
旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て (旧制)神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。
神戸高商在学中は三井物産入社を志望していたが、尊敬する水島銕也校長の推薦ということで明治42(1909)年3月に鈴木商店に入社。
大正元(1912)年、当時は世界の政治経済の中心であったロンドン支店勤務となる。
大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると、鈴木商店の番頭金子直吉の指示で投機的な買付を指揮する。また本国を介さない三国間貿易を日本人として初めて手がけ、鈴木商店のビジネス拡大に大きく貢献した。更に第一次大戦中には、連合国を相手に大活躍し、連合国向け食糧注文を受け、船もろとも売り渡す「一船売り」の離れ業をやってのけ、「高畑は、カイゼル(皇帝)のような男だ」とチャーチルに言わせたほど評判になった。
合成アンモニア製造特許を取得してクロード窒素工業(現・下関三井化学)の設立、ケニアのマガディソーダの販売権を獲得太陽曹達(現・太陽鉱工)の設立に繋げた。
昭和2(1927)年に鈴木商店の経営が破綻すると、昭和3(1928)年、高畑は永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社だった日本商業を日商と改め再出発を図り、「Small, slow but steady」(ちっぽけで、歩みも遅くとも堅実に行こう)を社是に同社を総合商社に育て上げた。
昭和20(1945)年には日商(現、双日)の代表取締役会長に就任した。(~1963年)
「ふるさと断章」 高畑 誠一 (日商会長、日本火災社長時代の筆)
老境に近づくと、とかく昔のことは忘れがちであるが、生まれ故郷の山また山に囲まれた内子の町の印象は深い。然し僕の如く中学に入る十二、三才までしか故郷におらず、高等小学三年で郷里を相当離れている西条中学校入学以来は、夏と冬の休みだけしか両親のもとに帰る機会を持たなかった者にとっては、生まれ故郷と共に物心ついた中学時代の丸五年を過ごした西条が第二の故郷とも云える。しかも就職後には海外生活が永いし、不便な故郷を訪れるのは時たまの墓参くらいである。
郷里内子は、ちょうど京の東山を見る様な「ふとん着て寝たる姿や、神南山」とでも駄句り得る、標高二千尺足らず(710m)南北に長く走る神南山と、南にそびえる高森山を朝夕に眺め、その山間を縫う伊予第一の大河肱川の清流を近くに控えた、風光明媚とはいかないが、当時は人口三千人内外、今は周辺の諸村を併合して二万余りの田舎町、河口の海岸にはほど遠い小邑に生をうけたが、付近の山林の材木や竹材などが土産物で、日鉱のドル箱、大久喜鉱山は隣村に在位して、今なお稼働中と思う。
日銀紙幣の原料三椏(みつまた)は郷土の特産品である。
昔は櫨の実を近在の村より買い集め、これを晒す木蝋と地方の養蚕による生糸と、製紙の家内工業が盛んで、父も木蝋や生糸の製造の豆工場を経営し木蝋を神戸の喜多組と云う問屋に売っていたのを記憶する。今は木蝋の事業は全消滅し、小規模の生糸業は残っていたが、これも時代の変遷で大企業に集中されて、今では大阪の岩田商事の資本系統である内山製糸株式会社に吸収統合され、その他材木集散の中継地として、また輸出竹細工などの小工場が僅かに気焔をあげている。
このように文化から離れている内子町ではあるが、日本一と称するものが二つある。
その一つは、旧暦八月十二日に開催される五穀神社の奉納素人相撲で観客二万を越し、大賑わいを呈する年中行事である。他の一つは町民が上と下との二組に分かれて肱川の両岸の河原に対陣し、数畳敷にもわたる紙の大凧を何十となく上げて、糸に金属のガンガリを付け、凧の空中合戦を演じて敵の凧を落とすという、他には見られない珍競技である。
また田舎町にも似ず上の学校へ行く人が割合多いのは、当時、安達玄杏国師と菊池石蔵という酒造家の二先駆者と云うか、篤志家が居て自費で地方の有望な青年を都会に送って勉強させたおかげである。日本ビールの高橋竜太郎翁とか、京大出の小野田セメント技師長専務の故菊池愛太郎氏、池貝鉄工所創設者蔵前出の故池田辰和氏、海軍兵学校出の潜航艇の最高権威者重岡信治郎中将等がある。特に重岡中将は尚武会を創設して地方の青年の育英に当たり、体育と学問を大いに奨励した人格者である。今でも覚えているが、郷里には田舎にしては珍しいハイカラ先生が近所に居て、英語を少々かじっていたから、僕は小学校に入学すると、すぐこの先生に付いて It is a dog に始まるナショナルリーダーを、また加藤という漢字の先生に論語を教えて貰ったもので、今から六十年以上も昔の話です。
夏休みには進学した先輩が帰ってきて、尚武会主催のベースボールやテニスをやったり、講演会をやる、僕もこれに参加する。
僕の小学校の時代には内子の町には中学校は無く、三里を隔てた大洲町にもその頃まで中学校は無いため、少々遠隔地ではあったが、山路七里を歩き郡中へ、それより豆汽車で三里もある旧久松藩城下の松山中学へ入学を志願して試験を受けに行った。然し心臓が悪いとの理由で、体格で跳ねられてしまって、学科試験を受けさせてもらえず、笈を負うて田舎を捨てて都会に出たものの出鼻をくじかれて非常に失望した。
幼少時代に、脈が正調を欠いていたのは、父が酒を飲んだ祟りだと思う。
同郷の先輩や友人は皆、この松山中学に学んでいるのに悔しくてたまらぬ。
当時、二年の先輩で後に三高の鬼ピッチャーとならした菊池秀次郎君も松中に在学していた。
一時は途方に暮れたが致し方がない。松中を断念する他なく、松山より遠くて不便であるが、海岸が非常に遠浅で有名であった西条町の中学の門をたたくことにして、わざわざ義兄を煩わせて同校の校医に松中での体格検査の事情を打ち明けて頼み込み、ようやく幼げな体格をパスさせてもらって、入学試験を受けた次第で、幸か不幸かこれが僕の幼年時代の大きな出来事であったというのは、西条中学と云うのは凡ての点で松中に比べて一籌を輪していたと思っていたため、これがかえって刺激となり人一倍勉強した。その甲斐が有ったのか中学三年の頃には、既に英語と数学では高等学校の入学試験に満点近くでパスし得る自信を持つところまで漕ぎつけていた。
夏休みには神戸まで来て海岸の遊歩地辺りを散歩する紅毛人等をつかまえて、英会話の押売りをしたり、米人宣教師の宅へ行くのを楽しみにした。
西条中学卒業は明治三十八年の日露開戦前後の秋である。
西条の町は四国第一の海抜六千尺の石鎚山の麓で、そのなだらかな裾野が海岸まで尾を引いており石鎚に発する加茂川の水も中途で地下の伏流となって郊外の所々に掘抜き井戸として清水がこんこんと湧出する。その末端海岸辺に西条や壬生川、新居浜の町を形成している。昔、僕の中学時代には商業港今治から小さな蒸気船で西条の沖に着き、艀に乗り換え、陸に近づき更に遠浅な浜辺を春先には潮干狩りなどを眺めながら、水中を手荷物を積んで乗る人力車で、数町もの距離を運ばれて上陸するという日本では他に類例のない珍景の港であった。
西条中学は堀に囲まれた松平藩の旧城跡に建てられているから、勉強や運動には最適の地であった。運動場の塀を超すと芋畑がある。ボールが塀を超すと拾いに行き芋を掘り焼いて食べたりしたこともある。
僕の西条時代には英語の先生が三人居た。一人は坂田幸三郎氏で、当時煙草王として知られた村井吉兵衛さんの女婿と成った人。一人は国民新聞に入り、その社長となった伊達源一郎氏、今一人は英語の上手な亀野景次先生で三人共に米国帰りのペラペラ。僕がこれらの洋行帰りの先輩に師事したのは今でも感謝している。
西条生活五年も終了を遂げようとする間際に、好事魔多し、急性肺炎にかかり、卒業試験が受けられなかったが、卒業免状はもらったので、一橋入学の意図を抱き上京の途次神戸に立寄ったところ、西条中学の二年先輩、国際連盟で男を挙げた外交官、今の法学博士伊藤述史君の切なる勧めもあったし、また病後のこともあったので神戸高商に入ることに変心したのである。
松中に入ろうとして体格で跳ねられ西条中学に行き、一橋入学を希望しながら途中の道草で神戸高商の入ると云うように、全然思いも依らぬ道程を辿るのも人の運命である。
神戸高商を卒業した為、神戸の鈴木商店に入り、若いのにロンドンに行く機会を得た。
着英早々にフラットのコースであるフェルウェル・ゴルフクラブでゴルフを始めると、幼年時代からの脈の結滞していた心臓が六ヶ月で治った。ウソのようだが本当である。爾来心臓に故障が無い。
ゴルフは僕の命の助けの親であるから、ゴルフのためなら何でもする。余り名誉ではないかも知れぬが、今では日本最古のゴルファーの一人である。
● 忘れかけの内子町風景 ↓
① 内子小学校、中学校と新天神さま・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html
② 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html
③ 知清河原と龍宮淵・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html
④ 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html
⑤ 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html
⑥ 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html
世界に増殖中の韓国慰安婦・少女像がコレ・・
現在、韓国内だけでも百数十体を超える慰安婦像(少女像)が存在し、その殆んどが公有地に設置されていますが、ソウルの日本大使館前のほか、釜山の日本総領事館横にも公共歩道上に違法に設置されているものがあります。
ソウルの日本大使館前に最初に設置された慰安婦の銅像は、キム・ウンソンとキム・ソギョン作による座像で、その後同じ型から同じ銅像が大量に製作されています。
慰安婦の真実を歪曲、捏造して騒ぎたてる韓国人たちは、今や母国を捨てた海外居住者まで巻き込み、その国の権威者を採りこんで欧米各国で慰安婦像の設置に血眼になっている状況です。
像の解説文は悪意に満ちており、如何にも日本を貶めるための宣伝工作としか考えられない内容となっております。
今後も、更に増加してゆく事は必至だと考えておくべきでしょう。
外務省及び現地大使館は【悪意に満ちた慰安婦のウソをあばき、その真実を徹底的に広報せよ】・・と叫びたいのです。
以下、欧米、豪アジアの実態を見てみましょう。
❸ 独ベルリンの少女像(区有地)
❸ 独ベルリンの少女像(区有地)
❸ドイツの元首相シュレーダー(76歳)と妻の韓国人キム・ソヨン(51歳)(2017年に結婚)
ベルリンの少女像が撤去から保留になったのは彼等の圧力のせいか?
❹ 米ワシントン近郊アナンデールの少女像(私有地)❹2020年7月7日、韓国・聯合ニュースによると、米バージニア州アナンデールにある慰安婦像が在米韓国人とみられる男性に倒される事件が発生した。↓
❺ 米サンフランシスコの少女像(市有地)
❺ 米サンフランシスコの少女像(市有地)
❺ 米サンフランシスコの少女像(市有地)
❻ 米ロサンゼルス近郊グレンデールの少女像(市公園内)
❻ 米ロサンゼルス近郊グレンデールの少女像(市公園内)
❻ 米ロサンゼルス近郊グレンデールの少女像(市公園内)
❼ 米ジョージア州ブルックヘブンの少女像 (市公園内)米アトランタのブルックヘブン少女像と ▼は碑文
【碑文翻訳】
平和の少女像
これは1931年から45年に日本帝国陸軍に奴隷にされた、「慰安婦」と呼ばれる婦女子を称える記念碑です。
慰安婦は推定数十万人の20世紀最大の人身売買の一つです。
この暗黒の歴史は1990年代に生存者が勇気をもって沈黙を破るまで数十年間隠されてきました。
慰安婦はアジア太平洋の少なくとも13カ国の出身で、主に韓国です。殆どは第二次世界大戦中に殺されました。
この碑はこれらの婦女子の記憶に捧げ、世界に蔓延する性暴力と人身売買を撲滅するためのものです。
私たちは決して忘れません。
真実を教えます。【記念のシンボル】
少女・・拉致された平均16歳の少女を表します
顔・・・・抵抗と、恐れない決意を表現します
短く切った髪・・家族から強制的に離された少女を象徴します
握りしめた拳・・沈黙を破り、真実を伝える少女の決意を表します
裸足・・家に帰って平和を見つけることが出来ない少女を表します
小鳥・・平和と自由・解放の象徴。空に還った被害者と未だ地上に残された被害者を繋ぎます。
空の椅子・・慰安婦の場所に座り、「もし私だったら、家族だったら、姉妹だったら?」と訪問者に考える機会を与えます。
影・・・・年をとり、沈黙を続けた長い期間の苦しみを象徴します。
蝶・・・・再び生まれ変わりたいという少女の願いを表します
❽ 米ニューヨーク博物館内の少女像❿ カナダ・トロントシティの少女像 韓国人会館前
⓫ 上海師範大学境内の少女像
⓫ 上海師範大学境内の少女像
⓬ 台湾台北・・国民党支部敷地内の少女像(人物は元総統馬 英九)
コロナウイルスの真実・・「新型コロナは中共解放軍の生物化学兵器だ!」
●コロナウイルスの真実・・「新型コロナは中共解放軍の生物化学兵器だ!」のパンフが東京周辺にポスティングされていたそうな・・・
http://www.nikaidou.com/archives/131827 出典より米国亡命の武漢ウイルス研究者 FOXニュースインタビュー
#閻麗夢
中国政府とWHOは嘘つき 香港から米国へ亡命した閻麗夢博士のインタビュー
バノン氏「複数の研究者が中国から脱出している」#閻麗夢
WHOの香港P3リファレンス研究所である香港大学公共衛生学院のドクター 閆麗夢(イェンリモン)がFOXニュースのインタービューで中国のCOVID-19の情報隠蔽について暴露した。 閆麗夢(イェンリモン)博士は世界中の人々に、COVID-19に関する真実を伝えるために家族や友人との離別を選択し香港からアメリカへ脱出した。
武漢でのコロナウイルスの情報を知ったが故に、当局より睨まれ身の危険を感じながらも米国に脱出した閆麗夢(イェンリモン)博士の告白書です。
私はDr. 閆麗夢(イェンリモン)です。
私は香港大学公共衛生学院に務めていました。香港大学公共衛生学院は世界でもトップクラスのコロナウイルスの研究室です。私が米国へ脱出したのはCOVID-20の真実を世界に伝えるためです。
もし私が香港で真実を話したら、話した瞬間に殺されてしまい、真実を伝えることが出来なくなってしまいます。
その為私は米国へ脱出しCOVID-19の発生源や危険性を、世界中の人々に伝えなければならないと思いました。
これは政治に関する事ではなく、人間が生存できるかどうかに関する事です。
私は世界で最初にCOVID-19の研究に取り掛かった研究者の一人です。
2019年12月31日、中国の武漢でSARに似たコロナウイルスが発生していることを知り、私の上司WHOコンサルタントのレオ・プーン(LeoPoon)博士から「何が起こっているのか」秘密調査を行うよう依頼されました。
然し、中国政府が香港を含む世界の専門家が中国へ調査に来ることを拒否したため、私は中国国内の知人を通じて出来得る限りの情報を得ました。
これは12月31日のチャット履歴です。
中国疾病予防コントロールセンター(CDC)の科学者の友人から直接入手した情報では、家族間のクラスター感染が発生し、人から人への感染が確認されたそうです。
しかし・・・WHOは当初人から人への感染に付いて数週間も隠蔽しました。
2020年1月9日・・・・テドロス事務局長「人から人への感染することはない」
2020年1月14日・・テドロス事務局長「人から人への感染する明確な証拠はない」
閆麗夢博士に情報提供をした医者たちは、WHO発表の生末に明らかに怯えていた。
WHOのような国際機関と中国政府の腐敗に付いては前から知っていて、情報隠蔽の体質を受け入れるしかありませんでした。然しミスリードされた情報が世界に広まって欲しくはありません。
正されるべきだと思いました。私の身に何が降りかかるか分かっています。
コロナ流行後の外国人入国者数推移を動く折れ線グラフにした・・
国立慶州博物館の首のない仏像・・
みそっちのソウル通信
韓国の旅、名跡を訪ねて・・
国立慶州博物館の首のない仏像
https://ninoq.hatenablog.com/entry/2020/11/07/103000 より
神仏を崇める日本では、仏像まで毀損させることは殆んどないが・・アノ国では・・
[土曜ミーナ]新羅の都が置かれていた慶州には朝鮮時代以前の文化や遺跡が数多く残っている、これらを収集し保存したのは日帝の仕業だった。
いわゆる高麗・新羅以降の朝鮮時代の抑佛政策または排仏政策と呼ばれる仏教弾圧は、既存勢力の解体を目的としたものではあったが、そこに宗教的対立があったわけではなく、単に過去の王朝のやっていたことを全否定する目的で行われたのである。
国立慶州博物館には首のない石仏が屋外展示されている。1965年、慶州芬皇寺の発掘で裏庭の穴から首の無い石仏が大量に発見された。これらは新羅時代のものと推定される。そして埋められたのは朝鮮王3代目太宗のころとされている。
首が無いのだから、そこには信仰もなく寺院と呼べるものは日帝が保護に乗り出すまでは廃墟でしかなかった。 ※慶州芬皇寺は慶州博物館から2㎞程離れたところにある。
日帝時代に発見されなかった石仏ばかりを並べては、引率の学芸員が誇らしげに「私たちが発掘したものです」「このようにヒデヨシの軍勢によってすべての仏像の首が折られています」と解説しているのは韓国人あるあるである
実はこれらの所業はすべて朝鮮時代の仏教弾圧により、仏像の首はすべて叩き折られたものなのである。 場所は ココ ⇒ 国立慶州博物館
まるでノーベル賞受賞を待つ銅像の台座のような展示は国立慶州博物館の美術品館東側に並んでいる。ちょっと見えている5重の石塔は現在3層で復元されている。
見て来い‼
現地360°ビュー http://naver.me/Ff4tuUrE
まさか博物館までやってきて、建物のまわりを一周するような観覧客はいないだろうと見越したかのような首のない仏像の展示には、当時の韓国国内の仏教団体も内紛に忙しく関心を示さなかったという。
見渡す限り首のない石仏が並ぶ様子は観覧者を圧倒する。しかし実は館内の展示されている石仏を含めても首のない石仏は20体あまりしか無いそうだ。
※慶州博物館は2008年から入場無料となっている
国立慶州博物館は1975年に現在の位置に開館している、それ以前の収蔵品は日帝が大正期に作った慶州遺物陳列館に保管されていた。そして大量の石仏群が発見されたのは1965年に行われた近隣の発掘調査だったという。
おそらくは大きな木づちなどで横からコツンとやったと見られている
実はこれらの石仏の発見の経緯は記録されていない。現在わかることは1965年に発掘されたという事実だけであり、埋められていた状況や、ほかに一緒に遺棄されていたものがあったか、などの状況はすべて不明だ。いわゆる「記録を残さない民族」としての韓国人らしさがそこにある。
これらの石仏は極彩色でペイントされ金泥で豪華にしつらえられていたと主張する研究者も多い。
屋外展示の胴体には、その名称や解説などが全くない。解説板にはヒデヨシの軍勢がどうのこうのと書かれていた。
建物の裏側に放置された石仏に見せる無関心さも、韓国人らしさのひとつである。
そして、館内に展示されている首から下の無い仏像の頭部
まるで、朝鮮では首から上だけが信仰の対象であったかのような集中展示のようす。
부처 부살 などと書かれている 仏頂 訃殺のようにも読める これがハングルだ。
慶州には瞻星台というものもある。博物館とは徒歩15分くらいの距離になる。この一帯は月城と呼ばれている。韓国で厄介者扱いされている月城原発のなまえの由来である。
慶州古代の天文台・・「瞻星台」
2017年、慶州を旅行中の酔っぱらった女子大生(27~29歳)ら3人が瞻星台によじ登って記念撮影をしたところ、警察が現れて御用となった。
刑札では事情を聴いた後、旅行を続けるように言うとその晩のうちに釈放した。警察には当時の事情聴取した記録が残っておらず、女子大生の所属や名前も一切わからないという。
関連過去カキコ:瞻星台に登った女子大生