泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

【タイトル画面の説明】
松山城の北東側、昭和8年頃の松山市の城北練兵場です。昭和20年の松山大空襲までの練兵場の姿、右端に鉄炮町付近の欅の大木が数本写っている付近に、軍事訓練用のトーチカも有りました。伊予鉄城北線に添って練兵場の南側にハゼの木の並木も写っており、秋に実が熟すとヒヨドリが群がっておりました。
中央部に黒壁に格子窓のある道場のような建物も写っておりますね。

コロナウイルスの真実・・「新型コロナは中共解放軍の生物化学兵器だ!」のパンフが東京周辺にポスティングされていたそうな・・・

 http://www.nikaidou.com/archives/131827 出典より

【参考】↓米国に亡命し「新型コロナ人工説」を提起した中国の科学者、その後の近況
https://news.yahoo.co.jp/articles/72e2fcfcbe2a1b7f69a56c2e7e048f3e816e590a

中国政府とWHOは嘘つき 香港から米国へ亡命した閻麗夢博士のインタビュー


WHOの香港P3リファレンス研究所である香港大学公共衛生学院のドクター 閆麗夢(イェンリモン)FOXニュースのインタービューで中国のCOVID-19の情報隠蔽について暴露した。 閆麗夢(イェンリモン)博士は世界中の人々に、COVID-19に関する真実を伝えるために家族や友人との離別を選択し香港からアメリカへ脱出した。


武漢でのコロナウイルスの情報を知ったが故に、当局より睨まれ身の危険を感じながらも米国に脱出した閆麗夢(イェンリモン)博士の告白書です。

(((DSC_0327-scaled

私はDr. 閆麗夢(イェンリモン)です。

私は香港大学公共衛生学院に務めていました。香港大学公共衛生学院は世界でもトップクラスのコロナウイルスの研究室です。私が米国へ脱出したのはCOVID-20の真実を世界に伝えるためです。

もし私が香港で真実を話したら、話した瞬間に殺されてしまい、真実を伝えることが出来なくなってしまいます。

その為私は米国へ脱出しCOVID-19の発生源や危険性を、世界中の人々に伝えなければならないと思いました。

これは政治に関する事ではなく、人間が生存できるかどうかに関する事です。

                               

私は世界で最初にCOVID-19の研究に取り掛かった研究者の一人です。

20191231日、中国の武漢でSARに似たコロナウイルスが発生していることを知り、私の上司WHOコンサルタントのレオ・プーン(LeoPoon)博士から「何が起こっているのか」秘密調査を行うよう依頼されました。

然し、中国政府が香港を含む世界の専門家が中国へ調査に来ることを拒否したため、私は中国国内の知人を通じて出来得る限りの情報を得ました。

 

(((DSC_0328-scaled


これは1231日のチャット履歴です。

中国疾病予防コントロールセンター(CDC)の科学者の友人から直接入手した情報では、家族間のクラスター感染が発生し、人から人への感染が確認されたそうです。

 

しかし・・・WHOは当初人から人への感染に付いて数週間も隠蔽しました。

2020年19日・・・・テドロス事務局長「人から人への感染することはない」

2020114日・・テドロス事務局長「人から人への感染する明確な証拠はない」

閆麗夢博士に情報提供をした医者たちは、WHO発表の生末に明らかに怯えていた。


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(((DSC_0330-scaled


WHOのような国際機関と中国政府の腐敗に付いては前から知っていて、情報隠蔽の体質を受け入れるしかありませんでした。然しミスリードされた情報が世界に広まって欲しくはありません。

正されるべきだと思いました。私の身に何が降りかかるか分かっています。

中国共産党が内部告発者を、どの様に扱うかも知っています。無実の若い香港の抗議者に対する恐ろしい弾圧も見ております。 


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(((DSC_0332-scaled

コロナ流行後の外国人入国者数推移を動く折れ線グラフにした・・





((IM_20

((IMコロナの症状



韓国の旅、名跡を訪ねて・・

国立慶州博物館の首のない仏像

https://ninoq.hatenablog.com/entry/2020/11/07/103000 より 


神仏を崇める日本では、仏像まで毀損させることは殆んどないが・・アノ国では・・

 

イメージ 1

[土曜ミーナ]新羅の都が置かれていた慶州には朝鮮時代以前の文化や遺跡が数多く残っている、これらを収集し保存したのは日帝の仕業だった。

 

いわゆる高麗・新羅以降の朝鮮時代の抑佛政策または排仏政策と呼ばれる仏教弾圧は、既存勢力の解体を目的としたものではあったが、そこに宗教的対立があったわけではなく、単に過去の王朝のやっていたことを全否定する目的で行われたのである。

 

国立慶州博物館には首のない石仏が屋外展示されている。1965年、慶州芬皇寺の発掘で裏庭の穴から首の無い石仏が大量に発見された。これらは新羅時代のものと推定される。そして埋められたのは朝鮮王3代目太宗のころとされている。

首が無いのだから、そこには信仰もなく寺院と呼べるものは日帝が保護に乗り出すまでは廃墟でしかなかった。 ※慶州芬皇寺は慶州博物館から2㎞程離れたところにある。

 

日帝時代に発見されなかった石仏ばかりを並べては、引率の学芸員が誇らしげに「私たちが発掘したものです」「このようにヒデヨシの軍勢によってすべての仏像の首が折られています」と解説しているのは韓国人あるあるである

 

実はこれらの所業はすべて朝鮮時代の仏教弾圧により、仏像の首はすべて叩き折られたものなのである。 場所は ココ ⇒ 国立慶州博物館

 

 

 

 

まるでノーベル賞受賞を待つ銅像の台座のような展示は国立慶州博物館の美術品館東側に並んでいる。ちょっと見えている5重の石塔は現在3層で復元されている。

 

見て来い‼

現地360°ビュー http://naver.me/Ff4tuUrE

 

 

 

まさか博物館までやってきて、建物のまわりを一周するような観覧客はいないだろうと見越したかのような首のない仏像の展示には、当時の韓国国内の仏教団体も内紛に忙しく関心を示さなかったという。

 

 

 

見渡す限り首のない石仏が並ぶ様子は観覧者を圧倒する。しかし実は館内の展示されている石仏を含めても首のない石仏は20体あまりしか無いそうだ。

※慶州博物館は2008年から入場無料となっている

 

 

国立慶州博物館は1975年に現在の位置に開館している、それ以前の収蔵品は日帝が大正期に作った慶州遺物陳列館に保管されていた。そして大量の石仏群が発見されたのは1965年に行われた近隣の発掘調査だったという。

 

 

 

おそらくは大きな木づちなどで横からコツンとやったと見られている

 

 

 

実はこれらの石仏の発見の経緯は記録されていない。現在わかることは1965年に発掘されたという事実だけであり、埋められていた状況や、ほかに一緒に遺棄されていたものがあったか、などの状況はすべて不明だ。いわゆる「記録を残さない民族」としての韓国人らしさがそこにある。

 

 

これらの石仏は極彩色でペイントされ金泥で豪華にしつらえられていたと主張する研究者も多い。

 

国立慶州博物館提供

 

屋外展示の胴体には、その名称や解説などが全くない。解説板にはヒデヨシの軍勢がどうのこうのと書かれていた。

 

 

建物の裏側に放置された石仏に見せる無関心さも、韓国人らしさのひとつである。

 

 

そして、館内に展示されている首から下の無い仏像の頭部

 

 

 

まるで、朝鮮では首から上だけが信仰の対象であったかのような集中展示のようす。

 



 

부처 부살 などと書かれている 仏頂 訃殺のようにも読める これがハングルだ。

 

 

 

慶州には瞻星台というものもある。博物館とは徒歩15分くらいの距離になる。この一帯は月城と呼ばれている。韓国で厄介者扱いされている月城原発のなまえの由来である。


((( 瞻星台

              慶州古代の天文台・・「瞻星台」


 

2017年、慶州を旅行中の酔っぱらった女子大生(27~29歳)ら3人が瞻星台によじ登って記念撮影をしたところ、警察が現れて御用となった。

 

刑札では事情を聴いた後、旅行を続けるように言うとその晩のうちに釈放した。警察には当時の事情聴取した記録が残っておらず、女子大生の所属や名前も一切わからないという。  

関連過去カキコ:瞻星台に登った女子大生

 

 

 

 
これが韓国の五重塔
 
 
イメージ 7

 

▲比較的原型を復元した"石造り五重の塔"、この復元には慶州大学考古学部による綿密な調査が行われ建立当時の荘厳な雰囲気を忠実に再現している
 
 
五重の塔なのにもかかわらず周辺には"余った石材"が散乱したままになっている、これは三層の五重の塔である、
 

デニス・バズエフが描いた日露戦争の描写が残っておりました。
これらの絵のサイトを記録していましたが、探しましても判明せず補足説明が不十分で申し訳ない事です。判明した時点で正確な画面の補足説明を致したいと考えておりますのでご了解願います。

旅順周辺戦跡での戦闘を描いたものです

(((デニス・バズエフが描いた日露1
後方が旅順港なので日本軍の203高地攻略の突撃戦か

(((デニス・バズエフが描いた日露2
左から日本軍の203高地攻略
(((デニス・バズエフが描いた日露3
日本軍の203高地攻略
(((デニス・バズエフが描いた日露4
ロシア軍堡塁での決闘
(((デニス・バズエフが描いた日露5
日本軍の突撃と迎え撃つロシア軍

(((デニス・バズエフが描いた日露6
ロシア軍堡塁内部

(((デニス・バズエフが描いた日露7
ロシア軍堡塁へ攻め込む日本軍

(((デニス・バズエフが描いた日露8
遂に山頂敵陣に攻め込む

(((デニス・バズエフが描いた日露9
司祭に依る戦死者慰霊

(((1904年日本はロシアを攻撃米英は見物
【欧米の風刺画】米英にそそのかされ強いロシアに立ち向かう日本

((日Xt8hpK4wQ
日本軍装

((日カーキユニフォームc
日本軍装

((日冬服k
日本軍装(冬季)

((日露k8TNk


((ロWGZqiQ
ロシア海軍軍装

((ロコサックVzHQ
ロシア・コサック軍
((ロスタッフJrJPkg
ロシア軍スタッフ

((ロ夏kpXPaw
ロシア軍夏服
((ロ冬fcckbVM
ロシア軍冬服

(((明治
日本軍創設期の軍服

((b8068b0
軍人づくし・・明治34年2月発行
(発行者)浅草区 尾関トヨ



((IM_20





日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦

http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より


吉本光蔵は、明3510361015退3612283815

 明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。

 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。

  砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。


 瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。

 リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。

 リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。 


 僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。

 8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。


【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃 


((1_Izumo
装甲巡洋艦「出雲」


((37石炭粉末o037
石炭搭載甲板上の混雑 粉末飛散の光景

((33合戦準備to033
合戦準備せる出雲上甲板の光景

((8インチto042
八インチ弾丸の補充搭載

((44甲板剣道o044
后甲板に於ける将校の擊剱  [写真右奥]加藤参謀長

((35将校の弓技035

((38軍楽隊o038

(((040
出雲後部甲板に於ける遊戯「デッキビリヤード」[写真右端]上村長官

((46水雷防御to046
盛夏の晩景水雷防禦網を張りたる後、兵員遊泳の景

((41入浴moto041
中部甲板兵員入浴の光景


((48士官食堂o048
士官次室の食卓用意(左に3人の士官が仮眠)
(船内の食卓に皿やフォーク・ナイフが準備された様子)

((43上村司令官to043
明治三十七年八月 出雲后甲板に於いて催されたる上村司令長官の茶話会


((45洗濯oto045
前甲板に於ける兵員の衣服洗濯


((39せんたく((039
中部甲板に於ける兵員衣服洗濯の景



旅 順 口 閉 塞 作 戦
((1回閉塞o006
明治三十七年二月廿四日、旅順港口第一回閉塞の壮挙に「出雲」より選出の五勇士は
仁川丸に乗組み齊藤大尉指揮のもとに名挙の任務を果して帰艦せし際に撮影

[左から] 一等機関兵青木五郎、二等機関兵三島謙六、一等機関兵貝原六郎、
二等水兵安保助蔵、二等機関兵伊豆音松、


((2回閉塞船o007

明治三十七年三月廿七日、第二回閉塞隊出雲撰出の三勇士

[左から]、二等水兵杉本三蔵、一等機関兵木下初蔵、二等機関兵古賀繁雄


((8閉塞出発to008
仝日 閉塞隊員韓国海州湾に於いて弥彦丸に転乗ノ為
出雲退艦に際し奏楽しつつ総員で見送る

((7-s
右の旅順口付近に自沈した閉塞船、から福井丸弥彦丸、米山丸、報国丸
(gettyimages-898061784-2048x2048
旅順港の入り口で沈没させた日本の封鎖船






日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦

http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より


吉本光蔵は、明3510361015退3612283815

 明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。

 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。

  砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。


 瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。

 リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。

 リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。 


 僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。

 8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。


【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃


((1izumo
装甲巡洋艦「出雲」

((1出雲出航o047

巡洋艦「出雲」前甲板出港用意錨揚方の景


((10水雷艇蒼鷹ニ給炭o010

旗艦「出雲」より水雷艇蒼鷹に給炭の光景

(三十七年七月末、浦汐艦隊が東京湾附近に現れたる中、

第二艦隊は水雷艇隊を引卒し日向(宮崎)有明湾に仮泊中の時)


((11春日4月11日o011
明治三十七年四月十一日、軍艦「日進」及「春日」初めて根拠地に来着す
聯合艦隊は登舷礼式を行い其の安着を祝す(画像の劣化)

(((oto004
明治三十七年三月六日、出雲前甲板ノ結氷 

((12黄海海戦報告8・10t012
明治三十七年八月十二日、上村艦隊旅順方面に向かう途次、済洲島沖に於いて山田戦隊に会し参謀吉田少佐端舟に乗じ「出雲」に来たり情報を伝う、此の時、端舟指揮明石乗組福田少尉は出雲后甲板ニ於いて十日の黄海々戦の戦況を口演す

((13リ第2艦隊吾妻013
戦況を聞知して第二艦隊は針路を転じ進航せんとす(正面は「吾妻」)

(((Aoto002

明治三十七年三月六日、第二艦隊は果敢に浦汐艦隊を砲撃中の光景
(旗艦出雲より第二番艦吾妻を見たる光景)


((14リューリックウラジオ艦隊014
明治三十七年八月十四日午前五時、出雲左舷艦首遥かに浦汐艦隊三艦を望む

((15リ敵艦リューリックoto015

午前七時頃敵の殿艦リューリック少しく後れ、隊伍がやや乱れんとす


((16リューリック最後o016
午前九時頃リューリック運転困難となり「ロシヤ」「グロンボイ」これを抜けんとして、
隊伍全く乱れ我れこれに集弾して戦最も酣なる

((17リ戦闘中の3艦o017

戦闘中に戦闘旗を掲げたる上村艦隊「吾妻」「常盤」「磐手」を旗艦出雲より望む


((18リューリックグロンボイ18
「ロシア」と「グロンボイ」は僚艦リューリックの救われざるを悟り北へ逃避せんとす。
(被弾炎上に見えるのは画面劣化の可能性であろう)

((17装甲巡洋艦リューリク]
戦闘前のロシア巡洋艦「リューリック」

((19蔚山薬莢019

蔚山沖海戦の後、出雲六インチ砲の発射せし薬莢の一部、同日出雲に於ける発射総弾数二千二百五十発


((20リューリック捕虜020

出雲に救出収容せるリューリックの捕虜前甲板に於て休養す


((21リューリックの捕虜021

リューリックの捕虜出雲前甲板に於いて休養す、吾が兵士今は朋友として胸襟を披きこれと談笑す


((22蔚山沖被弾o022
蔚山沖海戦の際「出雲」の前檣に受けたる敵の弾痕の径二尺余り

((23上甲板ケーシング被弾023
上甲板「ケーシング」の敵弾痕は縦四尺三尺余り

(((A025
中甲板第三区左舷より入りたる敵弾「ケーシング」を貫き右舷外板に至りて止まる

((24被弾o024

中甲板第二区先任衛兵伍長室敵弾の炸裂破壊す、本艦に命中せる敵弾三十余個の内炸裂せる


((26水雷艇o026

敵弾伝馬舩を破壊して艦載水雷艇を貫く


((27水雷艇o027
最後部煙突及び水雷艇に命中せる敵弾痕

((28水雷艇028

蔚山沖海戦の翌日、佐世保軍港に於いて敵弾に破壊されたる艦載水雷艇修理の為揚陸の景


((30煙突修理030

大檣及煙突の修理(修理のため、複数名の乗組員が柱に登っている)



((29-6インチ砲029

六インチ砲揚陸の光景


((31磐手031

三須司令官旗艦「磐手」の受けたる敵弾右舷前部「ケースメート」を破壊し

其の附近甲板及び端舟を破壊し死傷者七十七名を出す


((32水雷艇陸揚げ032

敵弾に破壊されたる艦載水雷艇を「ポンツン」にて揚陸の光景






 

 日露戦争(1904~05年)時に日本国内に7万人以上が収容されたロシア将兵捕虜の生活や処遇が記録として残されております。
 捕虜とは言いながら彼等は丁重なもてなしと監視のもと、市内見物など比較的自由な時間を費やしていた事が見受けられます。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



ロ シ ア 兵 捕 虜 収 容 所
(((ロシア戦争捕虜高浜港




   松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)


  松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)

((●松山01
松山市の繁華街大街道を散策するロシア兵捕虜

(((ps002
旅順から松山市公会堂収容所に移送された捕虜のロシア将校

(((ps008
松山郊外の郡中(伊予市)の彩浜館で接待を受ける捕虜のロシア将校
(1904年9月25日)

(((ps005
京都・智積院収容所の庭で記念撮影するロシア将校。
智積院には日本海海戦でバルチック艦隊を率いた
ロジェストベンスキー提督等が収容された。

(((ps007
大阪の収容所敷地内のあずまやの前に立つ捕虜。天王寺周辺とみられる

(((ps003
収容所となった松山・正宗寺の中庭で記念撮影する捕虜

((●道後awps004
旅順から松山・勧善社収容所に移送された捕虜のロシア水兵

(((ps010
松山でロシア将校に返還中のサーベル(1905年10月)

((●道後ps001
松山・道後で日本人負傷兵の家族に囲まれる捕虜のロシア将校

((●道後ps009
松山で収容中に死亡した仲間の葬儀に参列する捕虜


赤 十 字 病 院
(((+日本看護婦history-006
赤十字病院の看護婦

(((plc4WJZ
当時の礼状に使われた看護婦の絵葉書

(((にほん3
パフスリーブ看護服の従軍看護婦

(((パフスリーブ
従軍看護婦

(((+日本軍病院
仁川の野戦病院内の日本負傷兵

(((+野戦病院129
仁川の野戦病院での看護婦の働き

「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



((ロシアと日本がポーツマス条約に調印
日本とロシアがポーツマス条約に調印 終戦  

日露戦役 勝利祝賀
(((祝東郷9618
1905年10月22日、東郷元帥の東京への凱旋を祝う

(((祝英雄的な提督トーゴを歓迎するための凱旋門と巨大な群集
英雄的な東郷元帥を歓迎するための凱旋門と祝う群集

(((祝戦勝日本軍パレード
1905年10月22日、東郷提督の東京への凱旋を祝う

(((祝1905年10月22日、平島東郷提督の東京への復帰
1905年10月22日、東郷提督の東京への凱旋を祝う

(((祝凱旋Tougou_and_KamimuraT
東郷元帥の凱旋を祝う群衆

(((祝1905年10月にトーゴが東京凱旋
銀座は祝勝の賑わい

(((祝銀座は、旗布と旗で飾られて
銀座は、旗布と旗で飾られて祝捷
(((祝横浜、日本海海戦勝利
日本海海戦の勝利を祝う横浜

(((東郷069b2
東郷平八郎元帥

(((祝ロシアの敗北
皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ・・東郷平八郎


(((R対馬の戦い。 ロシアの悪夢
日本海海戦によるロシア艦の被害


満州派遣軍の首脳たち
(((mansyuugunn

満州軍総司令部

前列左から井口省吾、児玉源太郎、大山巌、福島安正、松川敏胤、田中義一
二列目左端が田中国重

((第一軍司令部将校軍司令官の黒木為楨と参謀藤井
第一軍司令部将校
2列目左から四人目が軍司令官の黒木為楨
その右隣の帽子をかぶっていない人物が参謀長の藤井茂太

((((第一軍司令部と視察武官
第一軍司令部と視察武官

((((第1軍高官および軍の将校の召集陸軍本部
司令部前第一軍高官および軍の将校

((第二軍司令官、師団長軍司令官の奥保鞏、大山
第二軍司令官、師団長
2列目左から2人目が
立見、軍司令官の奥保鞏と大山。

((第三軍司令部将校と各師団長
第三軍司令部将校と各師団長
前列左から土屋第十一師団長、乃木、大山、大迫第七師団長、
飯田第一師団長、秋山好古
2列目
左から4人目が津野田

((第四軍司令部右から3人目が野津、4人目が上原
第四軍司令部。






「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


1904年2月9日       仁川沖海戦

(((1ロシア仁川沖


(((1Variagr仁川沖海戦で炎上するロシア艦右がヴァリャーグ_1904

(((ロシア艦1413


(((停泊中のヴァリャーグVaryag_1904



((を救出した仏の巡洋艦「パスカル」

(((引き揚げられたヴァリャーグVaryag1905
仁川沖海戦の後、ロシア戦艦「ヴァリャーグ」の残骸

(((自爆するコレーエツ1

(((自爆するコレーエツ


((((日本海軍兵


(((戦艦「ミカサ」に乗船した日本海兵隊
戦艦「三笠」甲板で訓練中の日本軍海兵


((自信過剰な戦前のロシアの漫画


1904年8月   遼陽会戦   1905年3月  奉天会戦

(((大山巌将軍と兵士history-002

((((日本の歩兵

((正面に向かう米と茶の軍隊の正午の和み


(((日本軍進軍754


((((ロシアから捕獲された砲

((((日本兵は、捕獲されたロシアの野砲を最前線に送
((((第1軍_戦利品

((((奉天の戦い(1905)

((奉天戦大山巌将軍-003

((((R炎の奉天をロシア軍が放棄逃亡す
炎の迫る奉天をロシア軍が放棄逃亡す

(((大山奉天入城05
大山巌将軍の奉天入城

((((奉天会戦後に点呼をとる日本軍第一師団
奉天会戦後に点呼をとる日本軍第一師団

((日本の兵士
奉天会戦後に点呼をとる日本軍第一師団

(((遼陽の戦いの後、勝利した大山
遼陽の戦いの後、勝利した大山将軍

((中国救援隊に任務中の日本人歩兵
救援隊に任務中の日本軍歩兵

((中国救援隊に勤務する日本軍砲兵隊-SC-
救援隊に任務する日本軍砲兵隊

(((明治軍装
救援隊に任務する日本軍


((IMG_320a1

コロナ感染者【移動平均】で傾向を掴め・・
東京は今も正念場!・・・第2波真っ只中、1日当り240人ペースの天井圏です・・



「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


((((第3軍 Fenghuang Hill.

鳳凰山の東南方高地に於ける第3軍司令官(乃木)一行の偵察


((((堡塁の占領

ロシア堡塁の占領




(((Rロシアが敗れた後、ポートアーサーの外の砦でロシアの兵士から

ロシアが降伏後、旅順郊外の砦でロシアの兵士から武装解除


((((旅順遠望_ナマコ山

ナマコ山から旅順遠望


((((第3軍慰霊祭

水師営東北方に於ける第3軍の慰霊祭


((((乃木第3軍ポートアーサーへ

旅順入城に向けて乃木第3軍司令官の出発



(((ポートアーサーの前-ロシアの砦

旅順近郊でのロシアの砦を捕獲した日本兵


(((ポートアーサーを占領する日本の兵士
旅順近郊でのロシアの砦を捕獲した日本兵



((((日露捕獲した敵銃器
              捕獲した敵銃器類と日本兵

(((エポート・アーサー近郊の野木将軍とそのスタッフの昼食04・12・4
旅順近郊での乃木将軍とそのスタッフの昼食  1904・12・4

(((エ日露戦争中に朝食を楽しむ野木将軍と将校
旅順近郊での乃木将軍とそのスタッフの昼食  1904124


((((第3軍_p12_134
第3軍司令官乃木・聯合艦隊司令官東郷及びその幕僚

(((日本兵が旅順陥落で
旅順陥落で日本兵と市民は歓喜した

(((順入城乃木連隊1905年4月2日
旅順市内へ入城する乃木聯隊  1905年4月2日

(((ポートアーサーの一般的なMaresuke軍隊4・2
旅順で第三軍を指揮する乃木希典陸軍大将・・  4月2日

(((エ旅順を奪った日本の指揮官
司令官室前の乃木希典将軍

(((エ旅順陥落後のキャンプでの日本軍乃木将軍1905年4月2日
旅順陥落労いの席での乃木将軍・・・

(((ポートアーサー降伏後の乃木希典4月2日
旅順で降伏後の敵将を労う乃木希典(右奥)  4月2日

(((野木将軍とそのスタッフ、ポートアーサーの征服者
乃木将軍とその部下たち


「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

190426       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

190428       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

190428       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

190429       仁川沖海戦

1904210      相互宣戦布告

1904224      第一次旅順口閉塞作戦

1904327      第二次旅順口閉塞作戦

190451       鴨緑江会戦

190458       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904810      黄海海戦

1904822      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904814      蔚山沖海戦

1904819      第一回旅順総攻撃

1904830      遼陽会戦

1904109      沙河会戦

19041015    バルチック艦隊出航

19041126    第二回旅順総攻撃

1904125      日本軍、旅順口203高地を占領

19041231    第三回旅順総攻撃

190512       旅順開城

1905125      黒溝台会戦

190531       奉天会戦

1905527      日本海海戦

190569       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905612      ロシア、講和勧告を正式に受諾

190577       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905731      日本軍、樺太を占領

190589       ポーツマスで日露講和会議が始まる

190591       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

190595       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

19051014    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


((ロシア皇帝ニコラス彼の軍隊と

ニコライ二世ロシア皇帝が前線について指揮官に激励別れを告げた


((((R満州で第32砲兵旅団がガッチナを前に出ようと
満州で第32砲兵旅団が、ガッチナを前に出ようと列車に乗る


(((Retvizanロシア海軍
戦艦「レトヴィザン」艦上で艦長と水兵


((R巡洋艦「ルリック」に乗ったロシアの船員
巡洋艦「ルリック」に乗ったロシアの水兵

(((R功績勇敢さのために兵士に
功績を挙げその勇敢さに兵士に勲章授与する将校

(((R旅順の露海兵history-008
旅順市内でのロシア海軍の上陸


((((ロシア軍事物資c866e
列車でロシア軍事物資の到着

((((R満州戦線で活動中のロシア軍
満州戦線で活動中のロシア軍

((((R1904年行動に向かう前にコサック
前線に向かおうとする露軍・コサック隊

((((R暑い日に塹壕にいるロシア歩兵
灼熱の中、塹壕から攻撃をかけるロシア歩兵

((((R丘への攻撃中に鎖を形成するロシア兵-1904年夏
丘への攻撃中に鎖を形成するロシア軍隊

((((RLiao平原を見下ろす高台にあるロシアのバッテリー
Liao平原を見下ろす高台にあるロシア軍のバッテリー

((((Rサンチェンジー近くのロシアの銃
サンチェンジー近くのロシア軍砲台


((((Rロシア陣地8
ロシア軍 砲台陣地

((((R日露戦争行軍中の1904-1905年
ロシア軍・行軍中の小休止

((((R満州鍋でのロシア軍キャンプ
満州鍋でのロシア軍キャンプ

((((休・旅順、砦の中にロシア人によって埋められた日本人
旅順、砦の中にロシア兵、日本兵死者の両軍相互調査中・・

((R-Japanese捕虜-POW-
ロシア軍の捕虜となった日本兵

((R落胆した日本のスパイと彼の奇抜なロシアの捕虜
現地人に成りすました日本軍のスパイが捕虜となった

(((H日本軍による占領の日、203ロシア兵から軍票
日本軍による203高地占領の日、ロシア兵戦死者から軍票の採取する捕虜

(((R終戦203高地971
日本軍による203高地占領の日、ロシア兵捕虜の集結

(((戦死したロシア兵、日本人の軍事名誉に埋葬された
戦死したロシア兵、日本人司祭によって名誉の埋葬をされた

(((R・Feng-Wang-Cheng王城でロシア人丁重に
Feng-Wang-Cheng王城でロシア兵を丁重に葬る日本兵

(((H日本兵に護衛されたロシア人捕虜
日本兵に護衛され移動するロシア人捕虜

(((H遼途堡子付近・捕虜russo
遼途堡子付近にて日本軍の指示を受けるロシア兵捕虜

((Hロシアの捕虜が電車を待つ
駅のホームで列車を待つロシア兵捕虜

(((+ケムルポの日本軍病院で負傷したロシアの船員
仁川の日本軍病院で負傷したロシア海軍水兵たちと看護婦

(((+ロシアの兵士看護Chemulpoの日本人赤十字
ロシア兵士の看護・・仁川の日本人赤十字

((+日本の看護師と医師、日露
ロシア兵を看護する日本赤十字の看護師と軍医









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