泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

【タイトル画面の説明】
松山城の北東側、昭和8年頃の松山市の城北練兵場です。昭和20年の松山大空襲までの練兵場の姿、右端に鉄炮町付近の欅の大木が数本写っている付近に、軍事訓練用のトーチカも有りました。伊予鉄城北線に添って練兵場の南側にハゼの木の並木も写っており、秋に実が熟すとヒヨドリが群がっておりました。
中央部に黒壁に格子窓のある道場のような建物も写っておりますね。


「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

190426       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

190428       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

190428       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

190429       仁川沖海戦

1904210      相互宣戦布告

1904224      第一次旅順口閉塞作戦

1904327      第二次旅順口閉塞作戦

190451       鴨緑江会戦

190458       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904810      黄海海戦

1904822      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904814      蔚山沖海戦

1904819      第一回旅順総攻撃

1904830      遼陽会戦

1904109      沙河会戦

19041015    バルチック艦隊出航

19041126    第二回旅順総攻撃

1904125      日本軍、旅順口203高地を占領

19041231    第三回旅順総攻撃

190512       旅順開城

1905125      黒溝台会戦

190531       奉天会戦

1905527      日本海海戦

190569       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905612      ロシア、講和勧告を正式に受諾

190577       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905731      日本軍、樺太を占領

190589       ポーツマスで日露講和会議が始まる

190591       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

190595       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

19051014    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


((ロシア皇帝ニコラス彼の軍隊と

ニコライ二世ロシア皇帝が前線について指揮官に激励別れを告げた


((((R満州で第32砲兵旅団がガッチナを前に出ようと
満州で第32砲兵旅団が、ガッチナを前に出ようと列車に乗る


(((Retvizanロシア海軍
戦艦「レトヴィザン」艦上で艦長と水兵


((R巡洋艦「ルリック」に乗ったロシアの船員
巡洋艦「ルリック」に乗ったロシアの水兵

(((R功績勇敢さのために兵士に
功績を挙げその勇敢さに兵士に勲章授与する将校

(((R旅順の露海兵history-008
旅順市内でのロシア海軍の上陸


((((ロシア軍事物資c866e
列車でロシア軍事物資の到着

((((R満州戦線で活動中のロシア軍
満州戦線で活動中のロシア軍

((((R1904年行動に向かう前にコサック
前線に向かおうとする露軍・コサック隊

((((R暑い日に塹壕にいるロシア歩兵
灼熱の中、塹壕から攻撃をかけるロシア歩兵

((((R丘への攻撃中に鎖を形成するロシア兵-1904年夏
丘への攻撃中に鎖を形成するロシア軍隊

((((RLiao平原を見下ろす高台にあるロシアのバッテリー
Liao平原を見下ろす高台にあるロシア軍のバッテリー

((((Rサンチェンジー近くのロシアの銃
サンチェンジー近くのロシア軍砲台


((((Rロシア陣地8
ロシア軍 砲台陣地

((((R日露戦争行軍中の1904-1905年
ロシア軍・行軍中の小休止

((((R満州鍋でのロシア軍キャンプ
満州鍋でのロシア軍キャンプ

((((休・旅順、砦の中にロシア人によって埋められた日本人
旅順、砦の中にロシア兵、日本兵死者の両軍相互調査中・・

((R-Japanese捕虜-POW-
ロシア軍の捕虜となった日本兵

((R落胆した日本のスパイと彼の奇抜なロシアの捕虜
現地人に成りすました日本軍のスパイが捕虜となった

(((H日本軍による占領の日、203ロシア兵から軍票
日本軍による203高地占領の日、ロシア兵戦死者から軍票の採取する捕虜

(((R終戦203高地971
日本軍による203高地占領の日、ロシア兵捕虜の集結

(((戦死したロシア兵、日本人の軍事名誉に埋葬された
戦死したロシア兵、日本人司祭によって名誉の埋葬をされた

(((R・Feng-Wang-Cheng王城でロシア人丁重に
Feng-Wang-Cheng王城でロシア兵を丁重に葬る日本兵

(((H日本兵に護衛されたロシア人捕虜
日本兵に護衛され移動するロシア人捕虜

(((H遼途堡子付近・捕虜russo
遼途堡子付近にて日本軍の指示を受けるロシア兵捕虜

((Hロシアの捕虜が電車を待つ
駅のホームで列車を待つロシア兵捕虜

(((+ケムルポの日本軍病院で負傷したロシアの船員
仁川の日本軍病院で負傷したロシア海軍水兵たちと看護婦

(((+ロシアの兵士看護Chemulpoの日本人赤十字
ロシア兵士の看護・・仁川の日本人赤十字

((+日本の看護師と医師、日露
ロシア兵を看護する日本赤十字の看護師と軍医









 私が小学校時代に憶えていた重岡中将閣下のエピソードを10年ほど前にアップしたのですが、その時に重岡中将閣下の写真を検索しても全く探し出すことが出来ませませんでした。

 その時、七転八倒の末、やっと海外のサイトから「帝国練習艦隊バンクーバー寄港記念」絵葉書を探し出すことができたのです。それも小学生時代に見た「八の字の髭と意地の強そうな眼力」の、重岡中将閣下の顔を憶えていたからこそ「この顔だ!」とヒットしたのです。

 それほど重岡中将の写真を探し出すだけでも一苦労したものです。


((重岡中将


 ところが最近、[0bject]さんのブログを拝見中に「海兵30期 重岡信治郎海軍中将のアルバム」に巡り合えたのです。

 転載を了解戴いたので、そのまま転載させてもらいました。(一部分に、私からの補足があります)


 参考・・[object]さんの弁・・「こちらのアルバムはヤフオクにて入手したものです。アルバム本体に重岡と書かれており、おそらく中将の旧蔵品で間違いないかと思います」


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海兵30期 重岡信治郎海軍中将のアルバム

http://kaigungunso.blog.fc2.com/blog-entry-100.htmlより 


ど〜も〜objectで〜す。
まぁ今回はほんとはミニコラムでいいかなって思ってたんですけど、
そのままでええかなって事でこうなりました。
ブツは題にあるように重岡信治郎海軍中将のアルバムです。
たまたま偶然手に入れたもので、家族親族写真が多くあんまり期待してなかったんですけど、
開けてみると結構いい写真があっていい物が買えたと思います。

それでは書いていこうと思います。

1-548



重岡信治郎海軍中将に関してはwikiにページがあるので詳しくはそちらをどうぞ→重岡信治郎

兵29期入学で、兵30期の卒業です。
兵29期には大湊直太郎中将、佐久間勉大尉、高橋三吉大将、藤田尚徳大将、八角三郎中将、米内光政大将などの錚々たる面々が並びます。
兵30期には今村信次郎中将、濱野英次郎中将、百武源吾大将などがいらっしゃいます。
それらの方々と共に学ばれたのが重岡信治郎中将です。
また、卒業成績がベッキなのに海軍中将に進級したすごい人物でもあります。

それでは写真を見ていきたいと思います。


1-sige

重岡中将です。秋山真之中将と同じ愛媛の生まれです。
このお髭がトレードマークというか髭を生やしている写真が多いですよね。

3-sige

海軍兵学校生徒の時のお写真です。
以前紹介した機関少尉候補生の礼衣と同じ様式の制服だった時代のです。


4-sige
こちらはご家族ご親族の子供達と撮影された写真です。

5-重岡
こちらも生徒時代も写真です。
明治期の写真のこういった色が大好きです。

6-重岡

こちらも生徒時代の写真です。夏前後によくやる服装をしています。
となりにいる方は陸軍の幹部候補生の方で、この方の中尉までの写真がアルバムにあるので親族の方だと思います。


7-重
きました!海兵生徒の集合写真です。
これがあるアルバムまほぼ当たりと言っても差し支えないレベルだと思います。
重岡中将は中段左から6人目にいらっしゃいます。
この写真には大曲真二郎中尉とみられる方が写っておりますので兵29期生徒の集合写真だと思いますが、他の方の判別は出来ていないので分かる方いらっしゃいましたらご教授下さい。

8-重
兵学校を卒業されて、少尉に任官後の礼装のお写真です。
まだ長剣が上手く持てていなくて初々しさを感じる一枚です。


9-重岡

こちらは中尉時代の写真です。親戚の子供達と写真を撮っています。
中尉なのにもう髭を生やしていて謎の貫禄があります。まだ30歳前なんですけど。


10-重岡
こちらは大尉時代のお写真です。
婚礼時の写真だと思われます。


11-重岡

12_20170621233701bcc
少佐時代の正装と通礼装のお写真二連発です。
正装の釦が10個なので古い時代の正装だとはっきり分かりますね。
佩用している勲章を見ると功五級金鵄勲章をされてますので日露戦争で武勲をたてられたのでしょうか?
もしかしたらハンモックナンバーの上昇にもこれがあったのかもしれませんね。

13_20170621233657fbe
少佐の頃くらいと思われる写真です。
ご家族で撮影されたものです。

14_201706212337051de
こちらも少佐〜中佐くらいの時期に撮影されたと思われる写真です。

15重岡信治郎海軍中将のアルバム(3)
右側・・重岡信治郎

16_201706212337187fb
左側・・重岡信治郎
重岡中将は大正3年2月20日から大正5年2月14日までの二年間フランス出張を命ぜられています。
こちらの写真はその頃のものだと思われます。
一枚目の左、二枚目の右側に写っている方は駐仏武官の丸山寿美太郎大佐だと思うのですが、まだはっきりはしていません。

17_20170621233702c04
こちらは中佐時代の写真です。
重岡中将は大正6年12月1日から大正8年12月1日の2年間、第四水雷戦隊の参謀を勤めています。そしてそれ以前それ以降に参謀職に就いた事は無いのでまさにその時期の写真だと分かりますね。
襟章がないので大正6〜7年に撮影された写真だと思われます。

【重岡中将ご家族、親子5人と思われます】

【前列ご子息の面影そのままの大人顔を、昭和29年ころ内子町で何度かお見かけした記憶があります】


18_20170621233709d0b

どういった集まりの写真か分かりませんが、親族か近しい間の方々だとは思います。
下段の陸軍士官から年代が分かりそうですが、陸軍の軍服から詳しい年代を導く事が出来ませんのでどなたかよろしくお願いします。


以上が重岡中将の写真ですが、まだおまけがあります。

19 重岡信治郎海軍中将のアルバム(4)

20_20170621233656223

こちらの二枚の婚礼用の写真がアルバムに入っていました。
海軍大尉の正装と通礼装の写真です。
正装も先に見た重岡中将の少佐時代のと比べて釦が8個で新しい様式だと言う事が分かります。
調べてみると重岡中将の御令嬢は兵52期の馬野光中佐に嫁がれたということなので、
こちらの写真は馬野中佐と御令嬢の婚礼写真だと思われます。
ただ私が持っている馬野中佐の写真とはちょっと違う様にも見え、また重岡中将に娘さんが何人かいらっしゃる事も考えて別人の可能性もあるかと思います。
こちらの海軍士官の方の情報をお待ちしております。

以上、重岡信治郎中将のアルバムにあった写真でした。
たまにパッと出るこういったアルバムに面白い写真があるのでコレクションは止められないですね。
ただ欲を言うと米内光政の写真とかあると良かったなぁと思います。
贅沢すぎますか?僕もそう思います。
それでは今回はここまでです。お疲れさまでした。

アルバムの中に有った写真・・・11点
重岡信治郎が海軍兵学校時代の友人との集会の様ですが、当時、海軍兵学校は江田島の筈ですし松山中学の同期生(明治31年卒)の集まりか、故郷内子町出身者の会「内子尚武会」の発起人の一人でも有るのでそれに関連するメンバーかも知れません。
22重岡アルバム帽章早稲田

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この野球チームは重岡中将の出身地愛媛県内子町の野球チームです。

胸に「UCHIKO」とあり、後方の山姿から松山の御幸寺山で場所は松山城北練兵場です。

松山や大阪で故郷を離れて働き、進学した青年の為に重岡等が発起人となって作られた

「内子尚武会」のチームだと思われます。


26内子大正67
内子町の「禅昌寺」玄関前です。(左から4人目、ご住職の林さま)
「日英 出征軍人慰問袋」「中豫新聞社主催 内子婦人会員箱詰の光景」とあり
日英同盟中の第一次大戦中(大正5年頃)のもので支那戦線へ発送と思える。
(左から2人目の小母ちゃんは後年、見覚えがある)


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23陸軍大尉を囲んで5O9H
陸軍大尉を囲んだ中学生 (この中に明治31年卒の重岡信治郎が居るのか?)
(居るとすれば後列、左から2人目=松山中学入学早々の頃か)
(1~3枚目にも、面影の有る同僚の顔が見受けられる)


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松山の持田町辺りに「ドイツ人のチッテちゃん」が居た、その母親の雰囲気(右端)


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28陸軍少尉
(陸軍少尉)





大正13年(1924)、重岡信治郎が巡洋艦「出雲」艦長時代に「帝国練習艦隊」として横須賀から「出雲」「八雲」「浅間」の3艦による太平洋を横断、アメリカのサンディエゴ、メキシコのアカプルコ、カナダのバンクーバーを親善訪問しております。

((重岡中将
● その時の「記録記念誌」が残っておりました。
((重岡035ad
大正13、14年「練習艦隊巡行記念」誌

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人に配布された記念誌のようです。
つまり出版されたわけではないので、ものすごく価値があるものですよ」

との書店の評です。


((重岡bb
海軍大佐七田今朝一  海軍大佐鹿江三郎  海軍大佐重岡信治郎
海軍中将百武三郎   海軍中将古川三郎
海軍機関大佐吉岡保貞  海軍軍医大佐石黒順二  海軍中佐日暮豊年

((重岡・練習艦隊8e3a
巡行前の記念写真・司令官と各艦長及び幕僚
前列中央・百武三郎司令長官の左が浅間艦長・七田今朝一大佐、
左端が八雲艦長・鹿江三郎大佐、
前列右端が出雲艦長の重岡信治郎大佐である。

((練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆
練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆「内省実行」

((重岡出雲a4e
軍艦「出雲」の准士官以上の記念写真
前列左から4人目が重岡信治郎艦長

((出雲士官候補生7cfa
軍艦「出雲」士官候補生の記念写真

((重岡出雲総員cc62
軍艦
「出雲」乗組み総員の記念写真(後方甲板)

((重岡出雲総員ac2.
軍艦「出雲」乗組み総員記念写真の一部

((八雲准士官434c
軍艦「八雲」准士官以上の記念写真

((八雲士官候補生d84
軍艦「八雲」士官候補生の記念写真

((八雲総員55f
軍艦「八雲」総員の記念写真

((浅間准士官d53
軍艦「浅間」准士官以上の記念写真

((浅間士官候補生d9a
軍艦「浅間」士官候補生の記念写真

((浅間総員606
軍艦「浅間」総員の記念写真

((浅間総員7f1
軍艦「浅間」総員の一部

((練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊
練習艦隊記念絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊

((登舷礼横須賀1
登 舷 礼 式 (横須賀軍港)

(乗組員全員を上甲板の両舷に整列させて、船外の相手に敬意を表すもの)   


((横須賀bcd


((横須賀出航
さらば!太平洋横断に向けて横須賀軍港を出発・・

((重岡横須賀出航131110
いよいよ航海の途にのぼる、左から巡洋艦出雲、八雲、浅間

((重岡サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」
米・サンディエゴ港に於ける寄港の三艦艇(
サンディエゴ要塞より)

((アカプルコ出雲94d
アカプルコ港(メキシコ)に停泊中の「出雲」と「八雲」

((アカプルコ特務士官5
なついたインコを土産にした特務士官(アカプルコにて)

((重岡バンクーバー訪問96c65
バンクーバー市長との記念撮影 場所は裁判所前の階段)

中央が百武三郎司令、その左がバンクーバー市長。

左端浅間艦長・七田(ひつだ)今朝一大佐、右端八雲艦長・鹿江(かのえ)三郎大佐、

後列左端出雲艦長・重岡信治郎大佐。



(次回は「重岡中将閣下若き日のアルバム」を予定しております)



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((IMG_320







 私が思い起こしますと、終戦の3ヶ月前に松山の空襲の頻発を逃れて、小学2年生の時、内子国民学校へ疎開転校して来て以来、入学式、卒業式の時には、必ず校長先生挨拶の次に、モーニング姿、又ある時は羽織袴姿の矍鑠(かくしゃく)として、鼻ヒゲが八の字の老人が、来賓として祝辞を披露されるのが常でした。

((img_12
当時の内子小学校

「あのおっさんダレぞ~?」「あの鼻ヒゲの爺さん、誰ぞ~?」
「あれは八幡さまの近所の爺さんじゃ・・」などと、ボソボソ云っていると・・
『シィ~・・
重岡中将閣下さんじゃ・・』と周辺の上級生が、口に人差し指を当てて合図しながら小声で伝達してくるのだ。
 こうして誰もが「重岡中将閣下」の名前を、自然に覚えてしまったようです。
 子供らでさえ「重岡中将閣下さん」と敬意を込めて呼称しているのですから、戦後とは言え町内の人々は、当然のように崇めていたのです。


((重岡_Nobujirō
(((





 「重岡中将閣下」は、内子町本町4丁目出身の「重岡信治郎氏」だったのです。
 同級生で内気でシャイな女の子、重岡照子ちゃんのお爺ちゃんだったのです。



 重岡照子さん(内子高校アルバムより)

 終戦直後のことですから、重岡信治郎中将がどのような方であるのか、先生からの説明は全く無かったのです。

 
【重岡中将閣下】=大将の次の位じゃないか! 只者じゃないぞ。 
 検索してみるか?・・・
ア・リ・マ・シ・タ・!


 愛媛の山奥の、小さな町の周辺の者が、恐れおののいていた筈です。

 【秋山真之】が明治43年(1910)に艦長を務めた巡洋艦「出雲」の艦長を、重岡中将が大正12年(1923)に拝命し、更に重岡中将は後に海軍潜水学校の校長に赴任するなど、潜水艦に関連しての帝国海軍の権威でもあったのです。

((Izumo_in_Shanghai_2
帝国海軍巡洋艦「出雲」(9750t)

(((QBKD

大海深く海もぐり・・「重岡信次郎」(1879~1971)」海軍中将、明治38年(1905)日本に初めて潜水艇が採用されて以来24年間、潜水艇の建造から乗員の教育に至るまであらゆる潜水艦関係の要職を歴任した。
衆議院議員7回・重岡菫五郎の甥にあたる昭和46年(1971)1月に内子で亡くなった。93歳

伯父、重岡菫五郎(1862~1906)は明治時代の政治家衆議院議員に7回当選、明治39年(1906)6月に死去


重岡信治郎が「出雲」艦長時代に「帝国練習艦隊」として巡洋艦「出雲」「八雲」「浅間」の3艦で太平洋を横断、アメリカのサンディエゴ、メキシコのアカプルコ、カナダのバンクーバーを親善訪問しております。

((重岡中将
● その時の「記録記念誌」が残っておりました。
https://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/97446a3e4a64cc4000b89a1cd9830fb1より
((重岡035ad
大正13、14年「練習艦隊巡行記念」誌

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人に配布された記念誌のようです。
つまり出版されたわけではないので、ものすごく価値があるものですよ」との書店の評です。



livedoorブログでは一度に掲載できないので、続きは近日掲載し
更に下記記事をも予定しております。

(次回は「重岡中将閣下若き日のアルバム」を予定しております)


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 明治時代までの内子の街道筋は犬寄峠、中山を通り護国から八日市、坂町、本町中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。

 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
 昔から内子の町は周辺の農家からの日用品や農業道具の調達のために、山間部の小さな町でありながら結構賑わっていたのです。

(((4-1958本町4
内子・本町4丁目 (昭和33年1958)(▼同一アングル▲)

(((4-2019植木
内子・本町4丁目(西から)(2019)

(((4-下12983
内子・本町4丁目 下芳我邸(2015)

(((4-下cbf6671
内子・本町4丁目 下芳我邸 (2017)

(((4-下芳我5
内子・本町4丁目 下芳我邸(東から)(2017)

(((4下芳我本29
内子・本町4丁目 下芳我邸(東から)(2014)

(((4-1960本町4
内子・本町4丁目 本町を象が歩いた日(1960) 

(((4-1922魚市場中町
内子・中町にあった「内子魚市場」(1914)(▼同一アングル▲)

(((4中・魚市場19
上の中町「内子魚市場」のあった付近 (2019)

(((5-内子銀行1914
内子・本町5丁目・内子銀行の頃(1914)

(((5-1960本町5
内子・本町5丁目 伊予銀行前から西を望む (1960)


(((5-伊予銀内子1970
内子・本町5丁目・昭和40年頃改装された伊予銀行内子支店 (1995)

(((5-伊予銀行909
道路面から後退して改築された伊予銀行内子支店  (2017)

(((5平常旅館設楽1980
内子・肱川町に在った3階建て「平常旅館」(設楽家)
昭和30年ころから「ヤマサン」が別館として使用した。(1956頃) 

(((5在りし日の五要旅館
他に「泰平旅館」「ヤマサン旅館」「松の屋旅館」があった。

(((5本町1930
内子・本町5丁目 松尾百貨商店  (1928)

(((5-1930本町5
内子・本町5丁目 松尾蓄音機店  (1932)

(((6二宮病院
内子・本町6丁目 開院頃の二宮医院  (1926)

(((6二宮医院2012
内子・本町6丁目 二宮医院  (2012)

(((町田医院跡2019
左に見える「二宮医院」を北に行くとすぐ「町田内科医院」があったが跡地の街灯に看板のみ残っている。他に「小川医院」「佐野小児科医院」「芳我医院」等が有った。(2019)

(((6町村合併記念マラソン二宮55
内子・本町6丁目 二宮医院前 (昭和30年1955)
町村合併記念駅伝競走

(((6内子町消防団58
内子・本町6丁目・消防団の訓練 (昭和33年1958)

(((7内子七夕28年
内子・本町7丁目の七夕   (昭和28年1953)

(((8本町81965
内子・本町8丁目(昭和40年1965)(▲同一アングル▼)

(((8-2019・8丁目3)
内子・本町8丁目   (2019)

(((8神山いなりや看板
内子・本町8丁目・・いなりや看板 (2019)
今日は内子へようおいでたなぁ・・
まぁ、いなりやへはいんなはれや~
うまいもんでも食べてゆっくりしておいきや・・
待っとるけんな・・

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コロナ・ウイルス感染者数の傾向線で【東京都】のみを判断しておりますと、移動平均線で見る限り異常過ぎる傾向を見せ始めております。

この状態で判断しますと明日は200人か・・300人かとも予測され、いよいよ第二波へひたすら突っ走っている動きに見えてきました。

ここらで【東京アラート】の発令をしないと手遅れになる気がしてなりません。


 明治時代までの内子の街道筋は、護国から八日市、坂町、中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。

 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
 昔から内子の町は周辺の農家からの日用品や農業道具の調達のために、山間部の小さな町でありながら結構賑わっていたのです。



(((本町1・2017

(((郷の谷上
内子本町1丁目 栄橋から郷の谷川上流を見る  2019


(((本町1燈篭t02


(((恵比寿市1955

IMG_3278
栄町周辺   昭和34年(1959)
(この辺、恵比須神社から栄橋まで盛土され通称・新道と言われていた)

((1962郷の谷
内子・栄町から郷の谷付近を望む・・遠方に内子座の屋根 (昭和37年1962)

((1962恵比須d
郷の谷から恵比須神社(左上)が見えてい
ました(昭和35年1960年)

(((s30松の屋前
内子・本町2丁目の雨上がり・・地道の道路 (昭和30年1955)

(((本町2ー10
内子・本町2丁目   (2010)

(((2012松の屋前14
内子・本町2丁目   (2012)


(((2019 本町2松の
内子・本町2丁目   (2019)

(((2013本町松の屋
内子・本町2丁目「松の屋」前から西を見る。右折れ内子座へ (2013)

(((本町3-1989
内子・繁華なころの本町3丁目   (1989年)

(((2019本町3
内子・本町3丁目   (2019)

IMG_3280本町4
本町も地道から舗装道路工事へ・・昭和40年
(1965)

(((本町4・2019(3)
内子・本町3丁目   (2019)

(((本町4・1956
内子・本町の七夕かざり   (1956年)

(((七夕盆
内子・本町の七夕かざり   (1965年)

(((七夕2
お提灯ぶらぶら・・おかごへ参りましょ・・と歌ったような(2005頃)

(((笹祭り
内子・本町の七夕かざり   (2015年)

(((y1953まで郵便局
「化育小学校」として建設され、明治17年生まれの祖父も通学したとの事。
以後、内子郵便局、内子電々局、内子農協を経て現在「内子児童館」
(写真は昭和初期のもの)

IMG_3274
1960年頃まで、この「電々局」裏庭に
天然記念物級の松の巨木が2本あった。

(((y郵便化育1970
「内子農業協同組合」時代のもの (1970)

(((y郵便84_1
内子児童館 (1984年)

(((y旧・内子尋常小学校(内子児童館
内子児童館 (2017年)

((内子警察17
左は元「内子警察署」と「内子児童館」(2017)

(((uchiko_keisatsusho_image
「内子町ビジターセンター」は元「愛媛県警 内子警察署」
(昭和11年建造)
((624.v1592791206
「内子町ビジターセンター」

(((中町広より1979
内子町中町の風情 広町より西を見る(1979年)


(((中町町内寸描2014gles
内子町中町の風情 広町より西を見る(2014年)



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((IMG_320


 明治時代までの内子の街道筋は、護国から八日市、坂町、中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。

 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。

((A0坂町1内子
八日市を南へ行くと桝形があり、直ぐ下り坂の坂町となる 2014


((A1坂町2枡形1979
坂町の家並み・坂町を登り切ったところ・桝形 1978年(▼同じアングル▲) 
ココから向こうが八日市。

((A1坂町AA
坂町の家並み・・坂町を登り切ったところ・・桝形を通って八日市へ 2017

((A2坂町2
坂町の家並みを南から・・坂町を登り切ったところ・・桝形  2019年

((A3坂町5
坂町の家並みを南から・・坂町を登り切ったところ・・桝形  2005

((A4坂町2017
坂町の家並みを南から・・  2011

((A5坂町24
坂町の家並みを南から・・  2017

((A5坂町2015
坂町の家並みを南から・・  2016

((B6坂町大森3
坂町の家並みを南から・・  2010

((B4坂町99
坂町の家並みを南から・・2014

((B3坂町森文
坂町の家並みを南から・・ 2010

((B3・2011坂町
坂町の家並みを南から・・  2019年

((U坂町90
北から見た坂町の家並み・・  2012

((U2坂町上75
北から見た坂町の家並み・・  2015

((U1坂712
北から見た坂町の家並み・・ 2014

((U坂町上から
北から見た坂町の家並み・・   2017

((U坂町2019
北から見た坂町の家並み・・右の白塀の中は金光教会  2019

((b7坂町金光教会
金光教会  2017

((U坂町779
北から見た坂町の家並み・・  2014

((U坂町947
北から見た坂町の家並み・・  2016(▲同じアングル▼)

((U坂町S
北から見た坂町の家並み・・  1980年

((U9-2013坂町
北から見た坂町の家並み・・  2013

((坂町森文
坂町の家並み・・  1980年

((U坂町
北から見た坂町の家並み・・  2014


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((IMG_320





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